"汚せる服を着てこい"。
 これが「訓練」の合図だった。

 軽い朝食を済ませたハル君は、小さなコップを傾ける手前で短く呟く。
 返事を待つ気があるのか無いのか、私がはいと言うのと同じに彼は一口にお茶を飲み干して、無言のままに部屋を出て行く。銀の食器を重ねるたび、冷たい音がしきりに鳴った。

 こないだまでは馬に乗せられた。
 騎馬は昔から大人に稽古づけられていて、カウィでは歳が10にもなれば男も女も馬を扱える。
 だけど、それでは駄目なのだと、ハル君は眉をひそめた。女衆も、男の扱うような軍馬に乗れなければならない。ともすれば幼い子や老人を添えても走れる程度には。
 これに賛同する人は、少なくとも表立っては一人として現れず、若い男性たちの噂を又聞いたアザラハさんが目を丸くして、うちまで事情を訊ねに来た。話の筋がどうあったのかは分からない。とにかく、自分の世代からはそう方針づけるつもりだとハル君が低く言ったのを、お茶を淹れながらの私も聞いた。

 ハル君に厳しく指導されるのを、喜んで受けるのは私くらいだ。
 もちろん私にだって、疑問や抵抗も無くは無いけれど。
 彼に何か思うところがあるのなら、近く寄り添ってそれを聞くのが、妻としての私の役目だと思った。

 もし何も語られないにしても、夫の選択には黙って従おうと、独り善がりで義務づけた。


 私の手を引くハル君は無言のまま、馬屋のそばを素通りした。あ、と思わず声が出る。

「今日は馬には乗らないの?」
「ああ」
 ハル君は足を止めないまま、ちらりと一目だけ振り返る。

「一昨日で及第点でいい。お前は呑み込みが早い」
 愛想に欠ける声色と説明に、それでも頬のゆるみは抑え難かった。

「新しいことを覚えてもらう」
 そう言って足を止めたハル君が指差す先を見て、私は背筋が寒くなった。直感、これから始まるのは自分に不向きな作業だと怯える。きっちりと拵えられた柵の中で、中ぶりの羊が嗄れたような鳴き声をあげた。
「ハル君、今日は私、鶏肉のご飯にしようと思ってて」
 どうしようもなく視線が泳ぐ。
「今日使わないなら保存用にすればいい」
 ハル君は何食わぬ顔でそう言ってから、柵の方へ歩み寄る。

「また今度でもいいんじゃないかな、今日はほら、私も心の準備が」
「屠られるほうは何時だろうが準備させてはもらえない」

 淡々とした手つきで脚に縄を括り付ける、羊は別段大げさな抵抗も見せなかった。
 嫌だなあ。何も言い訳か浮かんでこない。
 卑怯な逃げでいいから、せめて今だけ賢い人間になりたい。

「横から指示を出すから。お前も見たことは何回もあるだろ」
 平和な呼びかけがぼんやりと耳に入る。

「男の人の仕事じゃない」ぽつり。ハル君が振り返る。
「そうだ。この前の騎馬もな」何食わぬ顔で言う。
 でも、とまで発して、言葉が詰まった。

 ハル君が立ち上がって振り返り、気怠そうに首を傾げた。
「今さら何か感じることでもあるのか?鶏や兎くらいは女が家で自分で処理してるだろうが」
 まだ声に苛立ちは無いものの、圧のある物言い。
 まさか、私がそれが苦手で、毎回他の人に頼んでいるなどとは明かせない。

「新しく覚えて困るような仕事か」
 私は黙って首を横に振った。ハル君は自分の服の裾で小刀を拭い、短く溜息を吐いた。
「まあ急ぐ話でもない。突然でやり辛さもあるだろ。今日は俺がやる」
 しっかり見とけ、との言葉に、私は今度こそ「はい」と頷いた。

 桶を運んでくると、ハル君が袖を捲り上げる。
 屠る家畜は苦しませずの掟どおり、羊は手際よくあっさりと、して確実に息を絶たれた。
 これまでは何度も目を逸らしてきた光景を今日はしかと目の当たりにして、不思議と頭がくらくらしてくる。綺麗に水洗いされる前の、生臭く血みどろの内臓が取り出されるのを、私は呼吸を止めたままに桶で受け止める。

 とくに感情のない眼つきで、腰にかけたボロ布で押し付けるように再び小刀を拭う。
 昔、蹄の動物を屠った時の血をつけ広げて真っ赤な手をした友達が集落に帰ってきたとき、思わず大泣きしたことを思い出した。私ってあの頃から何も変わってないのかもしれないと、ぼんやり考えた。


 適当に切り分けた肉を持って帰ると、ナスリーンさんが助かったわと喜んでくれた。
 割り当てられた家畜を共同で管理しているお宅、その主婦長さん。フォボスやダイモスのお母さんで、私に家事を教えてくれた先生。そしてまた、ハル君を我が子のように育てた事実上の第二のお母さん。

「ハル、何か言ってた?」
 ナスリーンさんが心配そうな顔を見せる。
 私が首を横に振ると、先生は口をへの字に曲げた。
「困るわね。うちのおバカちゃん達が理由を聞いても駄目らしいのよ」
 おバカちゃん達というのは、つまり双子の息子達のことだ。

「うちの旦那から聞いたら、あたしの差し金ってバレバレだし」
 だからニキ、頼んだわよと、ナスリーンさんが肩をぽんと叩く。頑張りますと返した私が情けない表情をしていたのか、ナスリーンさんの手はついでに顔へ伸びてきて、むにむにと頬肉を摘まれた。

 ハル君が本心を語るのを、皆が待っている。
 それはつまり、私がそれを聞き出すのを待たれている、ということ。


 予告通り、鶏肉を煮たのを夕餉に出す。
 食事の片付けがてらに少しうじうじと躊躇したあと、湯を沸かして、また踏み出しかねる。ハル君がお湯浴びを済ませて、私が続いて入浴を済ませ、いよいよ寝床の準備を終えたところで、ようやく「あの」と声をかける。
 ハル君は枕を抱えて、なんだ、と返事をした。

「ずっと気になってたんだけど」
 私が切り出すと、ハル君は目の前に腰を下ろした。
 恐る恐るで顔を覗き込むと、淡い照明の中、予想外に柔らかい眼差しがこちらを見据えていた。それもそうか、まだ話題を投じてもいないし、私はすうと息を吸う。彼はじっと待っていた。

「ここ最近の、ハル君の訓練は、なんですか」
 情けない声色はいつものこと、ハル君が一瞬だけ面倒そうな反応を示すのもいつものこと。
 彼が徐に姿勢を崩していき、気だるげな表情のまま、口が開く。
「訓練と言うと」
「乗馬だとか、今日のお昼前のこととかです」
「必要な仕事だから教える、と最初に言ったはずだ」
 ハル君が言う。
 でも、と心の中でまず反論した。

「ああいうのは、男性のする事だよね」
 ハル君が無言で頷く。
「えっと、女の子は女の子で、昔から家のこときちんと仕込まれてるし」
 再び、小さく頷く。
「そうやって分担して、それで解決してるよね。どうして女が男の仕事を覚えるのかな?」
 よし言い切った、一息ついて力が抜ける。

 ハル君は少しの間黙っていた。
 蝋燭の灯が揺れるのに合わせて、彼の顔の陰影も少しずつ表情を変える。
 緊張の沈黙のなか、ハル君の肩を抱いて、"うちの息子はこんなに美男よ"と笑ったナスリーンさんの勝ち誇った笑顔を、何故だか思い出していた。じんわりと、握った手のうちに汗をかいた。


「お前は考えた事はないか」
 低い声が届く。何を、と聞き返す。

「定住化した集落で、政治もせず、いまだ族長を置く意味。絶対の指導者を若い衆から選ぶ意味」
 ハル君は私の目を見ていた。彼の視線に捕らえられ、私の思考は止まっていた。
「カウィのことかな」
 掠れた声に彼が頷く。
 それは、考えた事はないかも、と返すと、ハル君はまた目を細めた。

「じゃ、どうしてその族長は、戦いで決めるんだと思う」
 問われて、少し間を置く。
「それはやっぱり、強い方が頼れるし、みんなが言う事を聞くから、とか」
 私が喋るのに合わせて、ハル君は幾度か浅く頷く。だろうな、と小さく呟く。

「力あるものが力を継ぐ。誰の目にも分かる強者に、集団を統治させる。カウィは元々は戦闘民族だから、そうやって"強さ"を求めるのは当然の話だ。遊牧民が、牧草地を求めて移動し、またそれを他と奪い合うために、兵力を育てておく。当然の流れともいえる。そうしなきゃ生き残れないからだ」
 ハル君はここで一つ、長い息を吐いた。

「で、これは、族長制度ってのは暴力の継承なわけだ」
「えっ……」
 思わず声が漏れた。あまりにも乱暴な言い方だ。
 私をちらりと見た後、ハル君はあからさまに視線を逸らした。

「俺らはそういう支配に縛られながら生きてる。こうして都市民の真似事みたいに決まった家に住み始めたのに、だ。滑稽じゃないのか、都市民からしても、他の部族からしても。生活を変え、民族らしい生き方を捨ててなお、民族としての誇りを意地汚く守ろうとする。俺達が守ろうとしているのは、本当に"誇り"か?」

 滑稽だなんて。
 私が呟くと、ハル君は視線を落とした。


「伝統か時代か。信念か和平か。選択肢が迫ってる」
 ハル君はぼそぼそと呟いた。
 え、と声をあげる。彼は目を閉じた。俺は戦う、ハル君が言う。

「何と戦うの、どういう意味なの」
 馬鹿みたいに頼りない声で、私は訊ねる。

「族長として。選ぶべきは妥協じゃねえ。アッズィムの話を聞いたか?」
 どきりと心音が胸を打った。
 アッズィムの話?彼の主人の事だろうか?

「時代はとうに動いた。俺がカウィとして生きるなら。カウィがカウィとして生きるなら。取るべきなのは筆じゃなく剣だ。己が生きるため、カウィが生き残るため、何が必要なのか、うちの連中も本心では分かっているはずだ。俺は腰抜けのまま終わるつもりは無い」

 剣を取るとは、つまり?何故?手汗がひどい。
 次の言葉を考えようと黙り込むうち、どんどん思考が巡って、悲しい光景ばかりが浮かんだ。
 目の前にいる愛する人の呼吸、それがこんなにも遠く感じる。じっとり湿った掌の中で指を落ち着きなく動かして、涙をこらえて、深呼吸した。視界の揺れるのが、涙のせいか、たゆたう蝋燭のせいか分からない。


「ハル君、居なくなっちゃうの」
 泣きそうに情けない声だった。
 私の言葉を受けて、ハル君はあからさまに眉をひそめてみせた。
「居なくなる、か?」
 ひどくかわいた声。

「お前は誰の話をしてる」
 睨まれて、いよいよ耐えきれなくなって、私は黙って俯いた。
 ついに、うっかり、やってしまった。

 頭の中を走ったのは"忌み名"の男。
 それがハル君にとってどんなに苦い存在なのかは、私もよく知っているつもりなのに。どうしても、切り離しておけないみたいだ。だって仕方がないんだ、どうしたって"彼"は、ハル君の父なのだから。

 次の言葉を考えることもせず、ぽたぽたと涙が落ちる。
 霞む視界の向こうにとらえていると、不意に頭を撫でられる。顔を上げると、ハル君が身体をこちらに寄せて、居心地の悪そうに視線を外していた。その手だけはぎこちなく、それでもしっかりと私に触れている。
 じっと見つめると、やっとハル君が目を合わせ、たまらなくなってその胸に飛び込む。
 石鹸と、古い布のにおい。いつの間にか、一番安心できる場所に変わった、彼の広い胸。

 すまん、とハル君が呟く。
 私は彼の服に顔をうずめたまま、ぐいぐいと顔を横に振った。


「守るべきものがある」
 ハル君が言う。見上げるようにその顔を覗いた。
 ハル君はちらりと横目に視線を合わせて、私の手を取る。
 ふたりの指が、交互に絡まる。

「戦うぞ、俺は」


 そう呟いた彼の目は、しかし、
 揺れる炎にちらついて、もっと別の、なにか遠くのものを見ていた。