一.日ごとに近づいてゆく距離に添えて

 シーマファ旧市街北区。この街で一番頼りのない水路。
 流れる量は少ないけど、城外から引かれた地下水は街の中心部から運ばれてきても尚ありがたい冷たさを保っていて、じき夏を迎えるオアシス都市で涼を得るには充分に事足りた。

 向かいに座ったナージャが足をぶらぶらと動かして、水面を軽く蹴る。
 ここは水路の末端にあたるから、水遊びでも洗濯でも何でもアリだ。だから現に俺たちも、こうして足を突っ込んで、贅沢に水浴びなんてしちゃってる訳で。
「そういえばさぁ」
 思い出したような顔をして、ナージャがふと顔を上げる。

「シャーディーの街にもこういう水路ってあるの?」
「あるよ。ここほど多くないけど」
「へえー」
「城内の真ん中に大きい川が通ってて。そこから水路が伸びてる感じかな、ここみたく飲料水の区別はないよ」
「え? じゃあ洗濯に使った水とか飲むの?」
 怪訝そうな顔でナージャが言う。俺は笑いながら訂正した。
「違う違う。飲料水は外の川や井戸から汲んでくるんだよ」
「ああ、街の水路は洗い物専用なのか」
「洗い物とか水浴びとかね。飲料水は水売りが街まで運んで売ってくよ」
「砂漠地帯じゃなくても水売りって居るんだね!」
「アッズィムにもいっぱい居たよ。バラ水とかレモン水とか売ってんの」
「すげーなー」
 ナージャが足をばたばたと動かすと、蹴散らされた水が俺の顔近くまで飛んできた。
 俺は「仕返し!」と手で水を掬ってナージャのほうへ飛ばす。
 ナージャは軽く避けてから、俺の飛ばした五倍くらいありそうな量の水をこっちへ飛ばしてきた。

 ナージャがはたとその手を止める。
「ねえねえ、じゃあシャーディーの街はさー」
「……あ、ねえ」
「ん?」
 俺は昨日考えていたことをふと思い出して、その話を遮った。

「良かったら俺のことさ、しちって呼んでくれないかな」
 照れ隠しにちょっと頬を掻く。
 水面に向けていた視線を映すと、ナージャは俺を見て、眉をしかめた。
「へ? なに急に」
「いや、えーと……特別なあだ名なんだ」
「特別?」
 服の裾で両手を拭いながら、ナージャが聞き返す。
 俺は頭に巻いていた布をほどきながら、うんうんと頷く。

「うん。大事な人にはそう呼んでほしいな」
「…………」
 ナージャの頬が徐々に紅潮する。
 そのまま固まってしまったので、俺は布を絞り、笑いながら声をかける。

「把握した?」
 やや俯いたナージャが小さく頷く。
「……把握」
 呼び掛けには不釣り合いなかぼそい声が返ってきた。
 俺はここで終わってたまるかと思いながら、食い下がるつもりでさらに踏み込む。
「そうじゃなくて」
 ナージャは顔を上げてこちらを見て、赤い頬して眉尻をちょっぴり下げた。

「………………しち」
 さっきよりも更に小さな呟きが聞こえた。

「へへ!ありがと!」
 俺は絞った布を首にかけてから立ち上がった。
 ナージャも続いて立ち上がって、ひょいと水路を飛び越えてすぐ隣に来た。
「急に変なこと言わないでよ」
「え、何か変だった?」
 俺が尋ねると、ナージャは口をとがらせてぷいと顔を背けた。
 俺は声をあげて笑った。

「あ、ねえ、うっかり布濡らしちゃったけどこのまま靴履くの?」
 聞くと、ナージャはにやりと笑った。
「まっさかあ。シーマファ人はこのまま裸足でお家に帰るよ?」
「え、ええー……」
 ナージャはひらひらと手を振って、「慣れれば平気だよ」と言いながら歩き出した。
 俺はその後ろをついて歩く。彼女の背中を追いかけながら、これからぶつかるであろう文化の壁に思いを巡らせ、ひとり小さく苦笑いした。


二.そこから先は君に委ねるよ

 今朝はまたハルちゃんからとめどない小言を食らった。
 カウィ隊が東方分団となり、帝国の東部をまんべんなく警備するようになってから、なんとなくだけど、俺がシーマファに来る時にはいつもハルちゃんもシーマファに帰ってきている気がする。
 ――そう、この地は再び、"アシャ帝国領"になったのだ。

 まさかハーミスさんが国王になるなんて、思ってもみなかった。
 それ以上に予想外だったのは、自分が財務大臣になんてなってしまった事なんだけど。
 考えてみれば、とんでもない事じゃないだろうか。そもそも、俺みたいなのが大臣なんて、最初は冗談としか思えなかった。それでも、周りに助けられながら、出来ることから何とかやってみてはいる。
 そもそも人の縁で勝ち取ったような仕事だけど、良い巡り合わせだと感じている。

 困った事といえば、前みたいにふらふらと自由にシーマファへ来られなくなった事くらいで。
 大臣ならきちんと護衛を連れて歩けと、ハルちゃんに叩かれた背中が、ヒリヒリ痛い。


 午前の仕事を終えて昼食休憩になった時に、俺は隊商宿に戻ってきた。
 この宿も今では、経営権がシャラさんの手を離れている。シャラさんが結婚して帝都へと引っ越したからだ。今現在、あの姉妹の後見人だったらしいトリマンという商人が宿の面倒を見ていて、一向に経営権を譲ろうとしないナージャと、互いに小突きあって争っている(一応断っておくが、二人の仲は良好だ)。

 俺が食堂を覗くと、仕事を中断したナージャが、食事を持って休憩室に来てくれた。
 もうお偉いさんなんだから、もっと良い宿に行きなよ、と彼女は笑う。それでも、俺が行くと嬉しそうな顔をして、いそいそとこうして相手をしてくれる。確かに市議会の議堂には良い食材が揃っているし、待遇も良いし、良い料理人も居るけど、やっぱり俺の足はこちらへ向いてしまうのだ。
 これももう、2年くらい続いてる、お決まりの流れ。

 ナージャは自分用の冷たい飲み物を持って、俺の斜め向かいのソファに座った。
「ハルちゃん、相変わらず怖いんだけど……」
 今朝の事を思い出し、ため息混じりに言うと、ナージャは声をあげて笑った。

「はは、今日も会えたんだね。しちってハル兄に嫌われてるの?」
「嫌われてはないよ。ただ、気に食わないっていうか」
「帝都では仲良くやってるんでしょ?」
「うーん。昔より当たりが強くなったような」
「なんでそうなったの?」
 ナージャは不思議そうに聞いた。

 そりゃあ俺があなたのことが好きだからですよ。
 なんて言えるはずもなく、俺はちょっと考えてから、遠回しな返事をした。

「……ナージャが可愛いから大変なんだよ、お兄さんは」
「どういう事?」
「そのまんま」
 俺が言うと、ナージャは眉間に皺を寄せて納得のいかなさそうな表情をした。

「からかってんだな」
「からかってないよ」
「すぐそうやって、可愛い、とか言ってさ……」
「事実じゃん」
 ナージャは手に持っていた大きなガラスコップを、音を立てて机に置いた。

「やめてよ! は、恥ずかしいから!」
「うんうん、そういう所ね」
「この野郎!」
 ナージャは横に置いてあったクッションを掴みあげて、潰すように抱きしめた。

 俺はナージャが射殺すような視線を送ってくるのにも構わず、豆のスープを静かに食べる。
 この豆はおそらく北方商人がサトゥールから仕入れた豆だ。俺の古巣、ナル=スーク商会。帰りたいマイホーム。懐かしさに浸りながら、パンを口に運んでいると、ナージャが唸るような声を出した。
「どうせそうやって誰にでも可愛い可愛いって言ってるんじゃん……」
 俺はパンをお茶で流し込んで、とんとんと胸を叩いた。

「そういうのしないよ。口説いてるみたいじゃん」
「私には言うだろ……」
「口説いてると思ってくれていいよ?」
「はあ!?」
 ナージャは咄嗟に大声を出し、お茶の入ったコップを手に取って、一気に飲み干した。
 カン、と大げさな音を立てて、再びコップが机に叩きつけられる。

「あのさあ」
 切り出したものの、何も続けず、ナージャは視線をあちこち泳がせた。俺は豆をちまちま食べた。

「……え、何?」
 痺れを切らして聞くと、ナージャはぱっと顔を上げて俺を見た。
 その頬がみるみる赤くなっていく。裏返りかけの上ずった声が返ってくる。
「あ、あのさ、しち、実は私ずっと」
「待った!」
「っうぇぇえ?!」
 俺が言葉を遮ると、ナージャはまたクッションを両腕できつく抱きしめた。
 いやお嬢さん、その続きは言わせないぜ。

 俺は銀製のスプーンを皿の端に引っ掛けて、両手を膝の上に置いた。
 ナージャが真っ赤な顔をクッションで隠して、その上からちらりとこちらを覗いてくる。
 小さく咳払いをして、俺は言う。

「図に乗って宣言しておくけど」
「はい……」
「俺は婚前交際はしない人だからね」
「………………」

 ナージャはクッションを構えたまま無言でじっと俺の顔を見つめた。
 沈黙の時間が苦痛になる前に、俺は苦笑いをしてみせる。

「いや、はは……なんつって……」
「え、ああ……うん……」
「……早とちりだった?」
 俺が尋ねると、ナージャは顔を大きく横に振った。
 それからクッションの向こうに顔をすっぽり隠して、こちらを見ないまま言う。

「つまりその、しちは私のこと……」
「あーあーあー。ま、皆まで言わずに」
 再び台詞を遮ると、ナージャはクッションを膝に置いて、がばりと顔を上げた。

「なんで!」
「そういうのはこっちから切り出すべきじゃない?」
「じゃあ言ってよ!」
「俺にも心の準備をさせてください……」
 俺が言うと、ナージャは両手を頬にやって、へなへなと俯いた。

「心の準備なんか……私だって出来てないもん……」
「いやいや、さっきのはナージャから持ちかけたじゃん」
「しちが待たせるんだもん……」
 ナージャが少し顔を上げて、潤んだ目でこちらを睨む。こういうのも可愛いと思う。
 俺は両手をひらりと広げて、首を傾げた。

「ちゃんと言ってくれなきゃ分かんないじゃん……」
「そう思うってことは、つまりもう分かってるんだよ」
「そうじゃない。はっきりさせたいっていうか」
「まあいずれね」
 曖昧な返事をしてから、俺は残ったお茶を一気に飲み干した。
 ナージャは真っ直ぐに座りなおしてから、こちらをじっと見ていた。

 コップを盆に戻した時、ナージャが「ねえ」と声をかけてきた。

「うん?」
「あの、言うのはいつでもいいよ、私待ってるから」
「ああ、うん」
 思わずふふっと笑みがこぼれた。
 駄目だ、顔がにやけてしまう。それはちょっと情けない、頑張れ、俺の表情筋。

「それで、つまりはゆくゆくは私たちってさ」
 ナージャはここで一度言葉を切って、ごくりと唾を飲んだ。
 俺はその短い沈黙の中で、扉の向こうで徐々に近付いてくる足音を聞いた。
 少し嫌な予感がする。これは駄目だ、確実にここへ来る、この話題を聞かれるとまずい相手が。

 ナージャは足音に気付かない様子で、再び口を開いた。
「その、いつか私たちってけっ」
「ナージャ! 待って!」

 待、のあたりで勢いよくドアが開いた。
 俺の予想通りの相手が、不思議そうな顔をして部屋の入り口に突っ立っている。

「何慌ててるんだ、お前ら」
 ハルちゃんの問いに、俺たちはごまかしの苦笑を返した。
 ハルちゃんは特に興味も無いらしく、何も追求せずに部屋へ入ってきてナージャの横に腰かけた。

 内緒の話はまた今度。
 ちらりと見やると視線がぶつかり、ナージャは照れた様子で、へへへと笑った。


三.想いは未だ陽の光を見ないまま

 また、アシャに夏が来た。
 もうすぐ新帝国が立ってから丸一年を迎える。政治機構は徐々に固まりつつあり、中央が支配と支持を強めていくなかで、俺の仕事もまあ、増える増える。西へ東へ、北へ南へ。商業に動きがあれば、何かと駆り出される。
 俺の背負っている、"大臣"の仕事がそれだけ重いものだとも言えるし、ハーミスさん――もとい、リドワーン陛下の人使いが、それだけ荒いのだとも言える。そもそもこの国は公官の数が少なすぎる。……弁解しておくけど、これは俺個人の不平不満じゃなく、大臣仲間とも合致する意見だ。
 そんなわけで、俺はまたシーマファへやってきた。

 オアシス都市たるシーマファの夏はえげつなく暑い。この乾季ともなれば殊更だ。
 今回、国の公式隊商がこっちへ運んできたのは、貴金属類とサトゥールの穀類。帝国内で動かす物資のうち、特に重要となるものだ。今回は物量が多い上、新規の契約が結ばれる一件だからと、俺が仲介する運びになった。
 午前中ずっと金銀宝石を見ていた両目が、ちかちかとして落ち着かない。
 いや、きっと、落ち着かない理由はそっちじゃないけど。

 今日は忙しかったせいで昼食休憩にあまり時間が取れず、隊商宿へは行かなかった。
 一緒に昼食をとるのはもはや習慣だったから、一応謝りに行きたいけど、もうすぐ日も暮れる。
 宿屋街はこれからが忙しい時間だろうと思うと、足が遠のいた。
 何より仕事の邪魔をしたくないから。

 昼間はたくさんの露店が並ぶ市場には、木製の大きなテーブルと粗末な椅子が並べられ、仕事帰りの男性たちが飲み物を片手に談笑していた。シーマファは美しく、活気のある街だ。帝都にも負けない魅力がある。
 喧騒を避けようと、点々と灯かりの点りだした住宅街へ入る。こちらは静かで、どこからか良い匂いが漂ってくる。おそらくこの四角い家々の中では、女性たちが、夫や父や兄弟の帰りを待ちながら夕餉の準備をしているんだろう。途中、すれ違った野良猫に声をかけるも、あっさりとフラれてしまった。

 と、大通りから2つ目の最初の角を曲がった先で、見知った顔に会った。

「あ」
「あ、しち」

 ナージャが両手いっぱいに物を抱えて立っていた。
 俺はその傍へ寄って、手持ちの荷物から籠と絨毯をひょいと取り上げた。
「何してるの?」
「注文してた物を受け取りに行ってたの。しちは?」
 ナージャは肩にかけた皮袋がずり落ちかけたのを、ぐいと引っ張り直す。
 言葉に迷った。宿へ行くのを避けるためにこっちへ来たのに、まさかナージャに会うとは。

「俺は……ちょっと散歩かな」
「そう。また護衛もなしに、怒られるよ。今日はご飯食べに来なかったね」
「ん、なかなか忙しくて抜けらんなくって。断りもなくごめんね」
「いいよ。トリマンさんが残念がってたけど」
「なんで? もしかして商談が待ってた?」
「さあね。あの人もがめついからなあ」

 二人横に並んで、どちらからともなく歩き出す。現地点から宿まではそこそこ距離がある。
 大きな角を曲がるとまた大通りへ出て、がやがやと賑わっている飲食屋の通りがしばらく続く。周囲が騒がしいのもあって、ナージャも俺もお互いに話を切り出さず、そのまま足早に宿へ向かった。

 俺はその道中、悶々と悩んでいた。
 大事な話があるんだ。本当に大事な話が。


 厨房へ行くと、いつもの料理人さんが満面の笑みで迎えてくれた。
「シャーディー様。いらっしゃいませ。どうしたの、2人揃って」
「道中ばったり会ったんです。はい、これ卵」
「まあ、ありがとう!」
「あ、なんかトリマンさんが寂しがってたって聞いたんですけど」
 俺が言うと、壮年の料理人さんは卵入りの籠を机に置いて、あははと声をあげて笑った。

「会わなくていいわよ。お金貸してって話のはずだから」
「えー。個人的な契約は無理って、いつも言ってるのに……」
「大丈夫よ、今日はもう帰ったから。あの人より、ナージャの方がよっぽど寂しそうにしてたわ」
 彼女はにやりと口の端を吊り上げ、ナージャの方を見る。

「お、おばちゃん!」
 ナージャは照れたのか焦ったのか、腕に抱えていたシーツを落とした。
 俺と料理人さんがそれを笑うと、ナージャはシーツを拾い上げながら、こっちを睨みつけた。
「まあ良いじゃない。シャーディー様、もう夕飯は食べた?」
「いえ、まだこれからです」
「じゃあ食べていって。控えは常連さんが使ってるんだけど」
「ああ、いえ、忙しい時間にお邪魔するのは悪いです」

 断ろうとすると、料理人さんはこちらを見つめ、ぷっと吹き出してから、俺の肩をばしばしと叩いた。
「なーに言ってんのよ。今さら遠慮なんて寒いことしないでよね!」
「すんませ……ちょ、痛い痛い」
「もうすっかり馴染みの仲じゃない。ナージャちゃんの恋人を簡単に返す訳にはいかないわよ」
 恋人、との言葉に、ナージャが慌てて料理人の口を塞ぐ。
「そうですね、分かりました。いただきます」
 素直に折れると、料理人さんは満足げに頷いた。

 厨房を出ると、ナージャが口を開く。
「ごめん、先に戸締りだけしてくる。その絨毯、私の部屋のだから」
「ああ。敷いておけばいい?」
「ありがとう。運んでおくだけでもいいけど。すぐ戻るね!」
 早口に説明すると、ナージャは駆け足で廊下へ消えていった。
 俺はその反対方向に踵を返して、階段の向こうにある質素な木の扉を開ける。ここは従業員の休憩部屋。
 卓上のランプは消灯され、窓から淡い橙の光が射してきている。向かいの壁には3つ、右手の壁には2つの扉が並んでいる。以前は宿の家族の部屋だったが、今はほぼ使われていない。
 シャラさん、ハルちゃん、ヘイダルさん。それとカーミルさん。
 かつてこの宿に住んでいた人達は、各々が自分の運命に出会い、この地を離れた。
 たった一人、ナージャだけをここに残して。

 俺は一番右の扉を開けた。ここがナージャの部屋だ。
 薄暗い室内に目を凝らしながら、木の床に目を落とす。それから、部屋の中央あたりに日焼けしていない部分があるのを見つけ、その上に重なるように絨毯を広げた。青色を基調とした、美しいアッズィム織だ。
 絨毯の模様がゆらゆら揺れて、昼間のちかちかが戻ってくる。俺はしきりに瞬きした。
 と、その時、入り口の扉が開いた。

「うわ、暗い!」

 ナージャは真っ直ぐにテーブルまで歩いて食事の載った盆を置き、また扉の方へ戻る。
 傍に置かれた脚立と火打石を持ってきて、ランプの下へ移動した。それから慣れた手つきで火をつけて、天井からつるした照明に灯かりを点す。まだ火打石なんだ、と言うと、古風なのが好きなんだよ、と返ったきた。
「一か所だけ油が切れそう。まあいいや」
 呟いて脚立から飛び降りると、ナージャは道具を元あった場所へ戻した。

「絨毯、ありがとう」
「どういたしまして。ナージャもこれからご飯?」
「うん。でも少し前に飴をいっぱい食べちゃったから、ちょっとだけね」
「……飴?」
 俺が聞き返すと、ナージャはうんうんと頷いた。

「最近、近くの露店に飴屋さんがよく来るから」
「へえ、露店なんか出来たんだ。近頃、砂糖の値段が下がったもんね」
「そうそう。みんな喜んでるよ」
「ふふん。誰のお陰か分かっているかな?」
「ハーミスさんでしょ?」
「俺もけっこう頑張りましたけど!?」
「あはは。ありがとね」

 ナージャは盆を運んできて、絨毯の真ん中に置いた。
 ここんとこ、結構な勢いでアッズィムや東方世界に影響されてきているシーマファ市でも、未だに絨毯に座って食事をとる市民は多い。俺はこれがちょっと苦手だ。他の街なら、椅子の備え付けられた高いテーブルが食卓になっているところなんだけど。
「食堂は人手が足りてるから、ゆっくり食べて良いってさ」
「そっか。二人でご飯食べるの久しぶりだね」
 俺が言うと、ナージャはふにゃりと笑って、俺の向かいに座り込んだ。

「今日はね、くるみのパンなんだよ」
 ナージャは嬉しそうに大きなパンを手に取り、それを半分にちぎって片方をよこした。

 嬉しそうにパンを頬張り始めたナージャを目の前にして、俺は手が進まない。
 ぼんやりと盆に視線を落とし、ガラスコップの側面を滑り落ちる水滴を眺めていた。
 どうやって切り出そうか。話すなら今しか無い。

「……どうかした?」
 俺はすぐに顔を上げた。ナージャはいつの間にか手を止めて、俺の方を見ていた。
 咄嗟に得意の作り笑いが浮かび、曖昧な返答が口をついて出る。
「え、ああ。なんでもないよ」
「そう?」
 ナージャはパンを盆に戻して、指をこすってパン屑を落とした。
 彼女がミントティーを飲んで、コップから唇を離す時、俺はおもむろに話を切り出した。

「ナージャに言っておかなきゃいけない事があるんだけどさ」
 コップを静かに銀製の盆に置いてから、ナージャはこちらへ顔を向けた。
「何?」
「あー、えっと……」

 落ち着いて話そう、いつも通り。いつも通りに。
 俺は心なしかいつもより低い声で、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「多分、俺、もうこっち来れないわ」

 ナージャは膝に乗せた手の指をぴくりと動かした。
 返事は無かった。俺はさらに続ける。

「まだ決定じゃないけどね。でも十中八九、今回の仕事で最後になると思う」
「……なんで?」
 絞り出されたような、小さな問いが返ってきた。
 ナージャは眉をひそめて、怒っているような悲しんでいるような、微妙な表情でこっちを見ていた。

 さあ、どうやって返そう。何と言えば一番無難なんだろう。
 業務の指導書では決して教われない状況に、ひとつ長い息を吐いてから、俺はまた無計画に口を開く。
「あー、俺さ……」
 ナージャはじっと俺の瞳を覗き込んで、俺の言葉を待っていた。
 生唾を飲み込んで、俺は言う。
「結婚するんだ、あっち帰ったら、来月」

 沈黙。
 まあ何て言ったらいいか分からないよね。俺も相手の立場なら何も言わないと思う。
 それか、いつもみたくへらへら笑ったと思う。

 俺の方を見てはいるものの、ナージャの表情はどこかぼんやりとしていて、視線が合っているのかいないのかよく分からなかった。ナージャは暫くじっと固まっていた。俺も何も言わず、ただ彼女の反応を待った。

 おそらく何十秒か経ってから、ようやくナージャが言葉を発した。
「え、どういう事……?」
 俺は胡坐を解いてから、両の膝を抱えるように座りなおす。

「そのまんま。近々俺結婚するんだよ、陛下が取り持ってくれた縁談でさ」
 彼女はぽかーんと口を開けている。

「帝都の富豪階級とか、俺達みたいな官職位の人間って、政略結婚が多いんだよね。
 いつかは来るのかなーって思ったけど、やっぱり、って感じで。お相手が仁帝国の貴族令嬢なんだよ。すごいよね。大きい商会も持ってる人で、国家商人も抱えててさ。だから俺は、今後は東方貿易の主任になるみたい。重大任務だよねえ、仁の担当とか。国内のこういう仕事には、新しい人が就くんだ。そのうちシーマファへも挨拶に来ると思う。仲良くやってあげてね」

 言い終えてから、俺は鼻の頭を掻いた。
 居心地の悪さに捲し立ててしまったのが悪いか、やっぱりそもそもの話題のせいか、ナージャは視線を落として押し黙っていた。何の反応も無く、俺の話が聞いてもらえているのかすら分からない。
 長い、長い沈黙が部屋の中をたゆたう。

「……そっか」
 やがて、俯いたままのナージャが小さく呟いた。

 すっかり勢いをなくした口ぶりとか、がくりと落ちた肩とか、項垂れて見えない表情とか。
 その一つ一つが、寂しい、悲しいと訴えかけてくるように感じた。
 俺の自惚れかもしれないけど。いや、むしろ、自惚れだったら良かったんだけど。

 俺は暫く頭に浮かんだ言葉を転がして、それを選びながらぽつぽつと話した。
「ずっと言わなきゃって思ってたんだ。……結局最後の最後になったわ、ごめんね」
 彼女は微かに首を横に振った。

 前半は嘘だ。出来ることなら何も言わずにいつのまにか消えてしまいたかった。
 最後は事実。無責任にも程があるけど、ナージャが俺のことを怒ってくれたら良いと思う。
 それで俺が謝って。時間が経てば許してもらえる。そんな感じ。

 自分でも呆れるくらいに身勝手なことを考えていると、急にナージャが顔を上げた。

「いや。良かったね、逆玉の輿じゃない? さすがの強運じゃん」
 口元を見る。笑っている。目元を見る。涙の一滴も見えない。
 俺はほっとした一方で、寂しさに似た感情を覚えながら、いつも通りに笑い返す。
「はは。まあね。夢が叶うよ、すげえお金持ち」
「ふふふ」

 ナージャは笑った。
 そこで会話は途切れ、また長い沈黙がやってくる。

「…………」
「…………」
 お互いに何も言わないし、指先ひとつ動かしはしなかった。
 空気というか雰囲気というか、何かそういうものがいつになく重くて、両肩にずっしりとのしかかってくるような感じがした。ナージャも同じものを感じていたと思う。

 時間の経過もよく分からなくなってきた頃、遠くに人の声が聞こえた。
「……あ、呼ばれてる、かな」
 ちらりと見やると、ナージャは少し前に見たのと同じような格好で俯いていた。

「先に行ってて」
 少しばかり掠れた声がぽつりと落ちる。
 俺は「分かった」と返して、ゆっくりと立ち上がった。
 それからなんとなく足音を殺すようにして歩いて、ナージャの横を通り過ぎる。

 と、行き過ぎようとした時、ぐいと後ろに引っ張られた。

 振り返ると、ナージャが俺の服の裾を掴んでいた。
「ナージャ」
 思わず情けない声が出た。彼女はしっかりと服の布を握って、離すそぶりを見せなかった。
 俺はナージャの前にしゃがみ込む。
 ナージャは顔を上げて俺の目を見た。青い瞳がゆらゆらと揺れている。
 それから、彼女はかぼそい声で話し始めた。

「……あのね」
「うん」
「ずっと前にさ、しちが婚前交際はしないって言った時、すごく意地悪だなって思ったんだ」
「……うん」
「こんなに仲良しなのに、選んでくれないのかなって。私、安心したかった」
 彼女の震える声を聞いて、胸がちくちく痛んだ。

「でも違うんだね。意地悪じゃなくて、純粋な優しさで言ってくれたんだよね。しちが優しい人で良かった、余計な期待しなくて、勝手な夢を見なくて済んだから……余計に、傷ついたりしないで……」

 だんだんと声がこもり、終いには大粒の涙をぽろぽろと零して、彼女は両手で顔を覆った。
 俺はたまらずその細い肩に両腕を回した。
「……ご、ごめ……。な、泣きたくないのに……」
 俺の胸に顔を埋めたナージャが、声を震わせながらながら言う。

「ナージャ、ごめん。ごめんね」
 抱きしめる腕の力をぐっと強めて、俺は何度も謝った。

 どう考えたって俺が悪い。今までどれだけ思わせぶりな態度を重ねてきたことか。
 だけど、それも、俺が確かにこの子を好きだった証拠なのに。もうどうにもできない。
 これがただの俺の片恋だったら、こんなにも辛くなかったかもしれないのに。

「ナージャと出会ったのが、俺じゃなかったら良かった」
 この子がもっと別な人を好いていてくれたら良かったのに。
「商人のシャーディーじゃなくて、ただのシャーディーなら良かった」

 涙が出そうになるのを、俺はぐっとこらえた。泣きたくなかった。
 ナージャはただひたすらしゃくりあげるだけで、もう何も言わなかった。
 抱き寄せた彼女の髪の毛からふわりと香るのは、確かに、俺のよく知る匂いだった。

 暫く経って、どちらからともなく身体を離す。
 ナージャはごしごしと目元を拭い、「私行くね」と笑ってみせてから、飛び出すように部屋を出て行った。こじんまりとした部屋には、俺と、きっともうすっかり冷めてしまった食事だけが残った。

 ナージャの点したランプの灯かりが、風も無しにゆらゆらと揺れているような気がした。


六.遠いいつかに似た景色


 季節は巡る。例えそこが四季の曖昧なオアシス都市だったとしても。

 私はたらいの中から茶色の葦の茎をつまみ上げ、ぶんぶんと振って水を飛ばした。
 いつか、宗教大臣たる兄からもらったこの筆も、使い続けてもう何年経つのだろうか。前掛けの裾で葦を拭っていると、部屋の外からトリマンさんの呼ぶ声がした。
「ナージャ、まだ終わらないかー?」
 ぱたぱたと足音がして、トリマンさんが顔をひょっこり覗かせる。

「ごめんごめん。もう出来てるよ。筆洗ってた」
 私は外した前掛けを軽く畳んで机に置いてから、その上にさっきの筆を置いた。
 トリマンさんは呆れ顔で腰に手をあて、ため息をつく。
「頼むよ。遅刻したら大目玉だぜ」
「ごめんってば」
「間に合うから良いけど。じゃ、行こうか」
 言うなり、トリマンさんはこちらに背を向けて玄関へ向かった。私も後について部屋を出る。

 今日は大陸の東端、私たちが普段"東方"と呼んでいる地域から、商団がやってくる。
 一行の旅を命じたのは東の覇者仁帝国の皇帝で、今日こっちへやって来るのはその皇帝のお気に入りの、名高い国家商人だそうだ。今回の取引は、アシャと仁を結ぶ街道が完成して以後、シーマファ市の公式商会としては初の東方貿易となる。街道計画はリドワーン陛下の悲願であり、全臣民が諸手を挙げて祝った。

 それで今回、なんで平民の私やトリマンさんが慌てているかというと。
 嬉しいことに、うちの宿が仁商人の重要な契約隊商宿に加わる事に決まったからだ。
 まあ、そうでなくても、仁帝国の商団は見に行ってたんだけどね。

 うちの宿は旧市街の西区にあって、仁の商団がやって来るのは東の城門。
 私とトリマンさんは横に並んで、直径約5キロメートルの旧城内を、ちょっぴり急ぎ足で歩いた。まあ、思うほど遠い道のりではない。小さなころから駆け回りつくしたこの街は、全体が実家の庭みたいなものだ。
 神殿を横目に通り過ぎようとした時、トリマンさんが突然に話を振った。

「そういえば、陛下は今日いらっしゃらないのかな」
「来ないって聞いたよ。最初は来るって聞いてたけど予定変更ってか」
「残念だぜ。俺、建国以後は一度も会ってないんだよなあ」
「向こうで急きょ大きい仕事があったんだって。一日じゃ砂漠越えは無理だからね」
 このシーマファから、帝都であるアッズィム市までは、そこそこ広い荒野を抜けねばならない。私も何度も通っているけど、カウィ族の最速馬で移動した時でも、丸二日以上かかった。

 そういえば本当に、随分と広い距離を移動するようになった。
 陛下に出会って、初めてこの街を出るまでは、外の世界なんて何一つ知らなかった私が。
 私は六年前、はしゃぎながらアッズィムへ行った自分をぼんやり思い出した。

 思えばあの頃から、大きく変わったものは何も無い。
 私の周囲には相変わらず、平和で優しい時間が流れている。


 城門近くの事務所には、人好きのする丸顔の市長と官人たちが待っていた。
 忙しく手を動かす官僚をよそに、お茶なんて飲みつつ、トリマンさんは市長とお喋りをしている。

「しかし、シーマファが仁の交易ルートに組み込まれるとは、驚きだねえ」
 豊かな顎鬚を撫でながら、市長のムスタファ氏が満足そうに笑う。
「本当に。東方趣味も流行っていますから、双方に得のあるお話ですね」
 微笑みながらトリマンさんが答える。
「近年では帝都に押されてるけど、うちは元はアシャ地区一の商業都市だからね」
「ええ、まったく」
 冷たい水をゆっくりと飲みながら、私は二人の会話を聞いていた。

「そういえば、今日はアシャのお偉いさんが引率で一緒にいらっしゃるって話だよ」
 市長が思い出したように手を打つ。
「お偉いさん?」
「混乱を招くから内密にと言われたんだけど。私も又聞きで」
「でも市長が知らされてないなんて。歓待の準備があるでしょう?」
「いいや。私が出しゃばらないで済むように、帝都隊が官僚団を連れてきてるからねぇ」
「うーむ……中央強しと言いたいわけか……。いや、誰が来るんでしょうね」
「街が混乱する程の人気者といえば……国王陛下かな?」
「あっはっは。そうだったら嬉しいですけどね」
「いや本当に。リドワーン君、頑張ってくれてるからお礼を言いたいんだ」
 真面目な顔で話す市長をよそに、トリマンさんと私はこっそり目配せしあった。
 ごめんね市長さん、陛下は来ないんだよ。私が本人から聞いたんだよ。

「さて、そろそろお時間だ。城門へ向かいましょう」
 言いながら市長が立ち上がり、隣にいた外交官が入口の扉を開いた。
 部屋の奥で談笑していた官人やそのお付きの人たちも、市長に続いてぞろぞろと部屋を出てゆく。
 本来ならば、ここの門は昼間は開放されているんだけど、今日は演出も兼ねて"お出迎え"のタイミングまでは閉じておくんだそうだ。この街では仁の商人との直接交易はあまり無かったから、その粋な演出に、シーマファ市民はますます期待に胸を躍らせることになる。

 門下に集まった市民の波を見ながら、私は笑ってしまった。
 こんなに大勢の外国人に囲まれて入城するなんて、なんだかちょっと気の毒だ。
 仁の商人たちも、通訳係でやって来る"お偉いさん"とやらも。

 長らく立ちっぱなしで待っていると、ようやく動きがあった。
 群衆がざわざわと騒ぎ立てる中、門の両脇に立つ塔に登った門人たちが何やら大声で合図を出し合う。やがて、木と鉄が組み合わさった、強固な門戸がゆっくりと持ち上がった。
 市民たちはいっとう興奮して、皆一様に門の外へ目を向ける。

 はるばる遠方の仁国からやって来た商団は、想像以上の大所帯だった。
 恐らく千人をゆうに超す商人集団がなす隊列。その先頭に豪華な馬車、その後ろに商品を担いだ馬や人がずらずらと並ぶ。大きな荷車がいくつも連なって、パッと見ただけでは数も分からない。後ろのほうに居るのはどうやら軽装備の兵士らしい。いかにも異国風な彼らの装いを見て、筆記用具を持ってこなかったのを後悔した。
 記念日とはいえ、隊商でこの人数。仁帝国が、世界一の挙兵率を誇る軍事国家であるのも頷ける。

 仁の商団に圧倒されつつもその周りを見やると、城外の市民もやはりこの行列が気になったようで、城内と同様に大勢が集まって人の壁を作っていた。あのバカでかい商団の人数すら超えるんじゃないか?という勢いで、ものすごい見物客が押し寄せている。この街に、こんなに人が住んでたのかよ、と呆れるほどだった。
 まるで、アシャと仁で、人間寄せ集め対決でもしているかのようだ。

 まず、案内役の官僚と、仁国の役人と思わしき人が市長の前に出てきた。
 仁帝国の役人は膝を折り、市長の服の裾をさっと持ち上げて、そこに口づける。
 私はその見慣れない光景に驚いた。
 市長もまた、この慣習には馴染みがないらしく、どこかぎこちなく微笑んでいた。

「遠方より、よくおいでくださいました」
 市長の言葉に、仁国の役人は困ったように苦笑いして首を傾げた。

「……ねえ、通訳の商人が居るんじゃないの?」
 私はトリマンさんにそっと耳打ちする。
「あ、そういえば。まだ見てないよなあ、噂の"お偉いさん"」

 その時、案内役のシーマファの官人が「あっ!」と声を上げた。
 彼は素早くお辞儀をしてから隊列の方へ走って行き、先頭の馬車に飛びつくように入って行く。
 中で何やら短い会話があったようで、すぐに官人が一人の男性を連れて出てきた。
 それがこちらへ近づいてくるにつれ、私は拍動が速まるように感じた。

「あっ!!」
 トリマンさんが大きな声を出し、慌てて自分の口を塞ぐ。

 馬車から出てきた男性は、仁の役人と軽く言葉を交わしてから、市長たちの方へ向き直る。
 小声で、何やら弁解をしたようだった。「申し訳ございません」とアシャ語で話すのが聞こえてきた。
 市長が笑い声をあげ、私達のほうを振り返る。

「2人とも、こちらへ」
 私とトリマンさんは小走りで出ていって、市長の横についた。

 市長の目の前に仁国の役人。
 そしてだいたい私の目の前に、通訳係の商人が向かい合う形になった。
 私は市長が自己紹介をしている間、"お偉いさん"の長い服の裾を見つめていた。

「では、そちらさん側の自己紹介を。我々には必要ありませんがね」
 笑いながら、市長が通訳係のほうを手で指し示す。
 その男性は背筋を凛と伸ばした。

「アシャ帝国議会、財務相を務めております。シャーディー・アスル=マウルーフと申します」

 やっぱり、聞き覚えのある声だ。
 彼の言葉が聞こえているのかいないのか、シーマファ市民がわあっと歓声をあげた。

 大喧騒を鎮めるつもりか、咳払いをしてから、トリマンさんがそれに続く。
「お久しぶりでございます。今日のような記念すべき日に、このような場で、貴方にお会いできて光栄です。私はシーマファ商会のトリマン・ナセル。宿ジャンナトの経営係を務めております。――そしてこちらが、」
 ひらりと返した掌が、私の手前へ滑ってくる。

「お久しぶりです」
 私は俯いたまま小さな声で言った。

 顔を上げた。
 見覚えのある、人懐こい顔と目が合った。
 緑髪の商人はにこりと笑ってみせた。

 ああ、私はこの光景を知っている気がする。
 きっと六年前、わくわくしながら、この門の外へと飛び出していった時。
 この笑顔に、初めて出会ったあの時から。

「シーマファ市の観光指導係を務めております。ナージャ・ジャンナトです」

 気を張ったつもりで喋ったけれど、声は少し、情けなく震えた。
 息を吐いた。思ったよりも肩は軽くて、私はやっと目の前の彼に笑ってみせた。



「お帰りなさい、シャーディー」