母様は言ってた、いつでも感謝を忘れないようにしなさいと。

 私達が生きていられるのは他の誰かの救いあってのことだわ。
 世の中には、ひとりでも生きていけるような強い人ももちろん居るけれど。
 でも、と母様は暗い顔をする。

 そうして生きてしまえるのって、ひどく寂しいことでしょう。


 母様はいつも、僕の知らない「お父様」の話をするけど、
 時々たまに、別な人について喋ることがあった。それは、遠く異国に住む男の人らしい。

 古い知り合いなのよ。
 短く説明した母様の目はどこかぼんやりと宙を見ていた。
 良い人よ。とても。あなたなら仲良くなれるはず。

 母様はうわごとみたいに続ける。

 謎の人物は、母様にお金や必要ないろいろを送って、
 事実上、僕たちの面倒を見てくれているひとのことらしかった。
 どうしてそうして世話を焼いてくれるのか、深い事情は、僕は知らない。

 お手伝いさんが持ってきた箱の、細かい外国風の模様と、
 黙って俯いてそれを受けとる母様の横顔に、僕は例の人物を思った。

 どんな人なの、とはよくした質問で、だけど母様がまともに答えてくれたことは少なかった。
 一度きり、木陰でまどろむ母様に訊ねてみたときに、ふと教えられたのをよく覚えてる。
 ここにね、と母様は僕の右頬を指で撫ぜた。

「目立った刺青があるの。黒い線が二本。優しい人よ、とても。優しい人よ」


 母様は最後のほうで、"もしも"の話を言い聞かせた。

 あなたが独りになったあと、寂しくてたまらないと思ったら。
 ひとりで生きるのが難しく思ったら。
 細い指が僕の髪を絡める。

 訪ねなさい、太陽の国の強き人、あなたを守った偉大な手。
 きっと導いてくれるでしょう。あなたも、彼を好きになるはずだわ。


 会えたらまず、何て言おう。どうやって呼ぼう。
 父さんではないし、おじさんと言うにはまだ若い人だと聞いた。
 お兄さん、なんて言ったら、それはちょっと恥ずかしすぎるだろうか。

 目指すは母の焦がれた故地。


 ――旅の地図なら、己の中にある。