「ではサクサ、よろしく頼みますね」
「お任せ下さい」

 短い会話の後、サクサは執務室を後にした。朝一番の、唐突な呼び出しに慌てて駆けつけてみても、この主人の言う"大事なお話"といえばやはり、いつも通りの業務連絡のみである。
 若き警備兵長は寝違えた首を回しながら、休憩室の扉を開いた。



「何の仕事っすか?」
 備え付けの上質なソファには、部下が一人腰掛けて、ぼんやりと足を組んでいた。
 シャルナクは怠そうに立ち上がりつつ、今しがた戻ってきたヤールンサクサに声をかける。
「バラカート様だよ」
 サクサは端的に答えたあと、先ほど部下が座っていたソファの真向かいにどっかりと腰を下ろした。

「バラカート? あ、アッズィム商会ね。また来るんすか、あの人」
 ひとり手を打って納得しつつ、立ちっぱなしのシャルナクが大きな声をあげる。
 サクサはうん、と曖昧に返しながら、凝り固まった首を傾けた。突っ張った筋がじわりと痛む。
「隊長は嬉しくないでしょうね。あの人サフィーア様と仲良いっぽいし」
 シャルナクが笑うと、サクサも今度は「ほっとけよ」と返した。

「俺、ずっと思ってたんすけど」
  にやりと口角を上げたシャルナクは、後ろ手に指を組みつつ、芝居がかった歩き方をして部屋の入り口付近をうろつく。サクサは彼の悪戯っぽい笑みを横から眺めた。シャルナクの履いた木底のブーツが堅い床を叩くたび、コツコツと軽い音がした。
 大げさに間を引っ張った後で、 シャルナクは言葉を続ける。

「バラカートさんて誰かに似てません?」
 サクサはテーブルの上に頬杖をついてウーンと唸り、一応考えるふりをしたあとで、すぐに問い返した。

「……誰だ?」
「あーあ、とぼけて。そりゃ旦那様っすよ。カッシーニ」
 今は亡き雇い主の名を、シャルナクは不自然にゆっくりと唱えた。
 サクサは驚いて顔を上げ、にまにまと笑う部下の目をまっすぐに見た。

「とんでもないことを言うんじゃない。それもこの邸宅で。口を慎め、シャル!」
 叱られた側のシャルナクはそれを気に留めもしない様子で、大きく両手を広げる。
「でも、隊長もそう思うでしょ?」
 サクサは暫くその顔を凝視したあと、ぷいと顔を背け、「思わないな」と言葉を投げた。
 シャルナクの方は相変わらず、むしろ先ほどよりも幾分か上機嫌な声色で、勝手に語り始める。
「バラカート様は巻き毛だから、髪の毛は違うけどね。でも雰囲気は似てますよ」
 どこか得意げな語りに、サクサは次第に眉を寄せていく。

「カッシーニ様が来たとき俺はまだ小さかったから、あんまよく覚えてないっすけど」
 お前はまだチビだったからな。
 浮かんだ言葉を呑みこみ、サクサは沈黙を押し通した。

「喋る声の落ち着いたとことかも似てる。権力者のくせに献身的なトコもね。あ、バラカートさんはちょっと嫌味っぽいか。そうだ、笑い方なんてそっくりじゃありません? 空似にしちゃ出来すぎっていうか?」
「もういい、やめろ」
 いよいよ苛立ってきたサクサが呟き、部下の減らず口をたしなめようとした。
 が、その部下の方はまるで聞こえないふりをしながら、サクサに背を向けてなお話を継いだ。

「背格好はどうだろ。カッシーニ様も背は高かったですっけ」
「シャル……」
「ま、サフィーア様が好きになるのも分かりますよね。あんだけ旦那様に似てりゃ」
 シャルナクは楽しそうに、サクサを一瞥してその反応をうかがった。
「このまま結婚するんじゃねえかな。まだお若いのに、未亡人って言われ続けるのも嫌でしょ」
「シャルナク!!」

 サクサが大声で一喝した。
 さすがのシャルナクもこれを無視することは出来ず、振り返っては口を尖らせた。
「はいはい、すんません」
 ぶっきらぼうに謝る部下に、サクサが大きくため息をついた。
 こいつには、入隊の頃から手を焼いている。市議会に雇われた兵だというのに、主人への敬意に欠けたところがあるのだ。この場に第三者が居なくて良かったと、心の底から感じた。

「でもほんと、そうなったら俺は嬉しいっすね」
 なおも懲りないシャルナクは再び口を開く。
 ヤールンサクサは無言のままに、怒りを含ませた眼差しをシャルナクへ向けた。

「カッシーニ様も良い人だったけど、今になって思えば余裕が無さすぎたっていうか。こんな僻地に飛ばされてきたのも、まあ分かりますよね。出世しなさげだし。使用人の出だからですかね」
 廊下から小さく物音を聞いたような気がして、サクサは視線をそちらへ移した。
 しまった、扉を開けたままじゃないか。警備兵長は一気に全身に冷や汗をかいたように思った。

「金銭面でも、バラカートのほうが上じゃねえかな。結婚してくれたら俺らも給料上がりますよ」
「おい、ちょっと黙っててくれ」
「そうなればサフィーア様だってもう男みたいに働かなくていいし――」
「サ……」

 パシン、と乾いた音が、人気のない廊下に響いた。
 今しがた頬を打たれたシャルナクは、呆気に取られながら、目の前にいる女性を見た。

 サフィーアは彼の胸倉を掴み、振りかざした右手を、わなわなと震わせていた。
 無言のまま立ち尽くす二人の後ろ、腰を浮かせたサクサもまた、身体が硬直したようにじっとしていた。
 ぶたれた左頬にじわりと痛みを感じながら、シャルナクがごくりと唾を呑む。

「サフィ……」
「よくも言ってくれましたね。自分の言葉が何を意味しているのか分かっていますか?」
 サフィーアはシャルナクの言葉を遮り、厳しい声色で喋った。
「すんませ……」
 かすれた声でシャルナクが返す。
 サフィーアはやっと手を降ろして彼を解放し、目前の若者を睨みつけた。
「形ばかりに謝罪されても無意味です。シャルナク、よくお聞きなさい」
 主の言葉に、蚊帳の外で固まっていたサクサも、今度こそ背筋を伸ばして立ち上がった。

「人は誰かの代わりになることは出来ません。私は夫の代わりを求めてもいません」
 普段の優しさを一切捨てた冷たい声色で、サフィーアが続ける。
「バラカート様は人柄も才能も、こと優れたものをお持ちでしょう。それは私も存じています。
 けれど、それを他人と比べて、どちらが勝っているだとか言及するのは、愚かなことではなくって?」

 サフィーアの言葉に何も返さず、シャルナクは視線を落とした。
 叱られるのはもちろん嫌いだ。サフィーア様にはこんなに厳しく怒られたことがないから、尚更居づらいじゃないか。シャルナクは内心で舌打ちした。

「シャルナク」
 サフィーアの呼びかけに応じて、シャルナクは再び彼女の瞳を見た。
 鋭い視線にも怯まず、サフィーアはゆっくりを息を吸い込み、落ち着いた声で喋り始める。
「ハーシム家の娘として、そしてサトゥール総督の妻として言います。ジャン・カッシーニというのは、おまえの主人の名前です。あの方を侮辱することは、決して許されません。自分がどういう立場にあるのか、もう一度よく考えなさい」

 サフィーアの言葉の後、暫しの間、主と従者は無言のうちに睨みあった。
「……はい」
 ようやくシャルナクがこくりと首を落とすと、サフィーアも小さく頷いた。
 それからサフィーアはひょいとシャルナクをかわして、室内にいる警備兵長のほうを覗き込んだ。
「ヤールンサクサ!」
「は、はい!」

 急に呼ばれて、素っ頓狂な返事をしながら、サクサは姿勢を正す。
「タイタンが探していましたよ。明日の件でしょうから、後で聞いてやってください」
 表情を和らげた主人を見て、安堵のため息を漏らし、サクサは「承知しました」と頷いた。


 彼女がその場を去ると、シャルナクはソファに寝そべり、痛む頬を掌でおさえた。

「あー、いてて。あのオジョーサマが人を殴れるとは、意外でしたね」
「またそんな嫌味を。ちゃんと反省する気があるのか?」
「します、しますって」
 呆れた調子のサクサに振り返り、シャルナクはばつの悪そうな笑みを浮かべた。

「サフィーア様に感謝しろよ、普通ならさっさと解雇されてるところだ」
 サクサはシャルナクの隣に腰掛け、両腕を組んだ。
「あー、まあ確かに。そっすねえ」
 シャルナクのほうは呑気な声をあげつつ、相変わらず自分の頬を撫でる。
 二人は横に並んで座ったまま、暫く黙り込んだ。

「……俺らの雇い主がカッシーニ様だから」
 呆けていたシャルナクが、急に声をあげる。サクサが視線を向ける。
「何だって?」
「俺らはカッシーニ様の部下だから、サフィーア様には首を切れないって事っすかね」

 視線を外したままのシャルナクが言った。
 サクサはまた無言でその横顔を見つめたあと、長い息を吐いた。

「そうかもしれないな」
「なーんかやたらと堅いですね! サフィーア様って!」
 シャルナクは大きな声を出しつつ、両手を振り上げた。
 慌てたサクサはちらりと戸口へ目をやり、扉がきっちり閉まっているのを確認しつつ、部下の脇腹を肘で小突いた。シャルナクが「すんません」と笑う。

「……サフィーア様は、前はバラカート様と意見がぶつかってただろ」
 呟きながら、サクサはシャルナクのほうを振り返った。
 シャルナクも目をぱちくりとさせながら彼のの顔を見、小さく頷く。

「あれな。あちらさんが、うちを軽んずるような発言をしたから、サフィーア様がキレてたんだよ」
「えっ……」
「その時に言ってたぞ。サトゥール市民は、夫から託された、大切な人たちなんだって」

 一度言葉を切ってから、サクサは視線を天井へ移しつつ、ソファの背にもたれかかった。
「サフィーア様の肩には、二人分の責任が乗ってるんだ。俺達には弱音も吐いてくれないけどな」

 シャルナクはがつんと殴られたような気分になって、小さく「ふーん」と呟いた。