「今夜は月が綺麗ですね」

 ぽつり呟いた神官は、自分の声にこちらを振り返った少女に向け微笑みを投げかけた。
 少女は真ん丸い目をぱちぱち瞬きさせて首を傾げる。

「今夜は、じゃなくて、月はいつでも綺麗だと思うけど」
 ナージャは回廊の柱にもたれ掛かりつつ言い返す。
「カミュはずっと月を見てるから目が慣れちゃってるのかな。私はぼんやり見るだけだから、月の見える日は毎晩きれーだなって考えてるよ」
 言い足された彼女の言葉に、カーミルは言葉を呑んで押し黙った。
 またも意外な返答だ。我が妹ながら、この娘と時間を共にするには少々神経を使う。
 神官はそれを今一度ひしと感じた。

 沈黙を訝しがったナージャが再び振り返ると、カーミルは貼り付けたような笑顔を口元に浮かべた。
「そうですね。職業柄、つい満月ばかりを意識してしまいます」
「あ、そういえば満月の夜はお祈りがあるんだっけ!」
 ナージャは大声で叫ぶように言ったあと、忙しいのに呼び出してごめんねと、申し訳なさげに眉尻を下げた。
 それを見たカーミルが、瞳を三日月型に細めて微笑む。

「月の満ちるのは明日の晩です。すみません、今のは私の言い方が悪かったです」
「そっかそっか。良かったあ」
 ほっと胸を撫で下ろし、少女は満ちかけの月を見上げる。

「あんな円くなったのに、まだ完璧に満月じゃないんだね」
 ナージャがどこか愉快そうに言う。
「私にはわかんないや。やっぱりどれも同じくらい綺麗に見えるなあ」
 青年も月を見上げ、そのおもてに映る大きな影をじっと眺めたあとで、手前にいる妹の頭を撫ぜた。
 ナージャは驚いた顔で振り返ったあと、すぐにへにゃりと頬を綻ばせる。

「えへへ、なに?」
「貴女の髪。月に光ってとても綺麗です」
「そっかな」
 鏡がないから自分じゃわかんないや、と返して、その青髪の少女は手を伸ばした。日に焼けた肌が、月光に当てられて昼間より白く映える。
 ナージャの指は青年の蒼白い頬に触れた。

「カミュはなんだかお月様みたいだと思うの」
 不意に少女が口を開く。神官は驚いた目つきで手を引っ込めた。
「何故です?」
「髪の毛も肌も白くって、明るいときに会うと光って眩しいの」
「私は光ったりしませんよ」

 カーミルが口元に手をやって笑うと、ナージャは困ったような笑顔を浮かべて小首を傾げた。
「もちろんそれはそうだけど。お月様は太陽から光をもらって輝くんでしょ? それとおんなじだと思って」
 ナージャははしゃいだ声色で言った。

 一方のカーミルは相応しい言葉が見つからず、何も言い返さぬまま瞳を細めて微笑んだ。
 私は日陰者ですから、そんな事はあり得ませんよと、浮かんだ台詞がちくりと自分の心を刺した。

 ナージャはもう一度手を伸ばして、包み込むようにカーミルの頬に触れたあと、指を滑らせて彼の髪の毛に指先を絡めた。その手を警戒して少しばかり俯いた男の心情は汲まぬまま、ナージャがまた口を開く。
「月夜にはいっとう光るね。やっぱりお月様とおそろい。私カミュの髪の毛好きだな」

 カーミルは黙ったまま少女の手に自分の手を重ねた。
 驚いたナージャが顔を上げ、向かいの青年の顔を覗き込む。自分の背に浮かんだ月の光に照らされて、その瞳は静かに揺れて見えた。
「ありがとうございます」
 まるで囁くように弱い声でカーミルが言った。
 彼の導くまま、二人の手はカーミルの制服の胸元に滑り落ちた。

「え、な、何?」
 焦ったナージャがすっとんきょうな声をあげる。薄い胸を通して、掌に鼓動を感じる。
 カーミルはそのまま、空いたほうの右手をナージャの後ろ頭に回した。大きな袖が彼女の肩をすべり、上体は抵抗もなくカーミルの方へと引き寄せられる。

 二人の額がやさしく触れた。少女は驚いて目を瞑った。
 ナージャがなにか言わなくてはと口を開くより前に、青年の腕は彼女から離れ、胸に当てた手も半ば押し返すように解放された。少女が目を開いたときには、既にカーミルは音もなく立ち上がったあとだった。
「あれ、カミュ? 何なの?」
 問いかけには何も答えず、神官はただ微笑みながらこちらへ手を差し伸べた。

 ナージャはまるで訳の分からぬまま目の前の白く長い指を見、それからそこに大人しく手を重ねて自分も立ち上がった。カーミルは無言でナージャの両肩に手を乗せたあと、そのまま彼女の身体をくるりと回転させた。
「え、ちょっとちょっと! いきなり何だよ!」
「もうとっくに夕食どきは過ぎています。皆さんきっと帰りを待っていらっしゃいますよ」
 後ろを振り返りかけたのを阻止するように、カーミルはぐいぐいとナージャの背を押した。
 ナージャは危うく躓きそうになりつつ、不本意にも歩き始める。

 神殿前の広場を横切りながら、納得のいかないナージャは両手を振り回した。
「さっきのは何。なんで帰らせようとしてんの!」
「明日の満月祭、いくら楽しくても、くれぐれも羽目を外さないようにしてくださいね」
「しないけどさ!!」

 喚くナージャを広場の端まで押しやると、カーミルはやっと手を離した。
 勢いよく振り返ったナージャが、大声で文句を言ってやろうと息を吸い込みかけるのと同時に、彼女の両頬は大きな手のひらに包み込まれた。
「驚かせてすみません。今日は調子が悪いようです。明後日にはまた元に戻りますから、遊びにきてください」
「へえ? さっぱり訳がわかんないよ」
 カーミルは少女の頬から手を離し、眉尻を下げる彼女の頭を、ふわりと撫でた。

「月がいつでも綺麗に見えるのは、貴女の心が清いからでしょう」
 言い聞かせるような静かな口調にナージャは何も言い返せず、黙って口をつぐんだ。

「私を許してくださいね、ナージャ」
 カーミルが呟いた。ナージャはまるで訳の分からないまま青年の顔を見上げたが、相変わらず泣きそうに潤んだその瞳に寂しさを感じ、黙ったまま小さく頷いた。
 触れていた手が離れかけると、ナージャは青年の腰に抱きついた。

 両腕をいっぱいに伸ばして、しがみつくようにその青年を抱き締め、彼の服に顔を埋める。
 もう何年も前から家を離れて暮らしている兄。自分が成長するにつれ次第に離れていき、今や似ても似つかぬ容姿。それでも、こうして確かめてみれば、昔からよく知った匂いがする。

 カーミルは目を見開いたあと、徐に手を伸ばし、控えめに少女の身体を包み込んだ。
 そのまま暫し無言で過ごしたあと、カーミルが躊躇いがちに腕をほどき、「あの」と声をあげる。ナージャもすぐに腕を離して、それから勢いよく顔を上げると、大きく息を吸い込んだ。
「じゃあねカミュ。明日のお祈りで倒れたりしないでくれよ!」
「はい」
 カーミルが笑ったのを見ると、ナージャもまた笑顔を浮かべ、くるりと背を向けて駆け出した。
 兄はただ静かに、その後ろ姿を目で追った。

 通りの入り口まで来たとき彼女は再び振り返り、「おやすみ!」と叫んで手を振る。
 カーミルのほうは声を相手に届ける気もないようすで、おやすみなさい、と独り言を吐いたあと、少女の影が曲がり角に消えるのを見届けてから、自分もまた踵を返して神殿へと歩いた。

 青年の胸には、言葉では形容しがたい得体の知れぬわだかまりがあった。
 孤独ばかりを背負っていたつもりが、気付かぬうちに、思わぬ形で救われようとは。
 カーミルは唇を噛み締め、コツコツと靴底を鳴らしながら、足早に石畳を歩いた。


 空を切る肩から、長い髪がさらりと流れる。
 色を奪われたような無機質な銀色のそれは、なるほど、月光に照らされて光っているようにも見えた。