しあわせを夢む
夢なればこそ、信じていたい、信じて痛い。
――砂。
気が付くと一面の砂の中に立っていた。白い砂。シーマファを取り囲む白砂漠の姿。
一呼吸置いて、これは夢だと確信した。青と白の眩しげな対比はあまりにも目に馴染んでいて、視覚の情報からは現実との区別はつかない。が、眼球の奥を痛めるような眩しさも、喉を焼くような熱も感じなかった。
夢を、それも色彩のついた鮮やかな夢を見るのは久しぶりだ。
今立っているのが砂漠でなければ夢に気付くことも無かったかもしれない。
呼ばれて振り返ると先代の族長が居た。
どうしたんだ、と訝しげに向けられる視線を避けて、別に、と呟いて白い砂に視線を落とす。
夢のくせに俺に問いかけてくるのか。面倒くせぇな。内心で悪態をつく。
先代の隣を歩いてシーマファ市街へ入る。城門を抜け、市街をさっさと通り過ぎて、見慣れた隊商宿の門の前に立った。カウィの一行は立ち止まった俺の脇を過ぎて厩に向かっていく。俺はそれを横目に見届けてから、一足先に広場を抜けて宿の玄関へと歩いた。
両開きの扉の、閉まっている方をわざわざ肩で押し開けて屋内に入る。陽光に染まった瞳が宿の薄暗さに慣れるのに一寸あった。俺はいつも通りに無人の受付台を過ぎて、通路の脇にある休憩室へ入ろうと足を踏み出した。
そこで身体が固まった。
思わず身体を構えて、受付台を凝視する。
普段なら使われていない受付台に、よく知る背格好の男が居て、背を丸めて熱心に書き物をしている。
全身に冷や汗をかいているのが分かった。腹の底から吐き気に似た不快感がこみあげた。
青色とも緑色ともつかないやや暗い色の髪を、後ろでざっくりと一つにまとめた男。
健康的に焼けた肌色。お決まりの深い緑色の衣服。
男は突然顔を上げた。
「ハル。おかえり」
俺のよく知る声がして、見慣れた笑顔が向けられる。
男は握っていた葦の筆を布の上に寝かせると、お茶でも淹れようか、と手帳を閉じた。
それから再び俺を見て、吹き出す。
「え、おい、どうしたんだ。幽霊でも見たような顔して」
返す言葉が見つからなかった。
低く構えていた腰を立て直してから、ぐしゃりと右手で自分の髪を掴む。渇いた唇を開いて何か返そうとした時、俺の後ろからどやどやとカウィの集団が押し入ってきた。
「ふいい、ただいまー。喉渇いちった」
「皆おかえり。飲み物を用意するから食堂で待っててくれ」
フォボスの言葉に愛想よく笑う男。
連中は何の疑問も抱くことなく彼の存在を認知して、口々に喋り騒ぎながら食堂へ去っていった。ダイモスが俺の肩を叩いて、「先に行っちょるよ」と声をかけてきた。大勢の肩がすり抜けてゆく間に立ちながらずっと、男は俺の方を見ていた。
男が口を開く。
「ハル? 顔色が悪いぞ。疲れてるのか。お前も早く座って休め」
男はこちらへ歩み寄ってきて、俺の背に手を回してぐいと押した。
されるがままに俺は足を踏み出し、食堂へとゆっくり歩いた。
一服したカウィ隊が持ち部屋へと去り、残された俺は男と斜め向かいの席についた。
普段と何ら変わった様子のないソファに腰掛け、目前のコップを凝視する。胃から喉を通って鼻まで伝ってくるミントの香りに吐きそうだった。頭が痛かった。
「気分は良くなったか?」
男が言った。俺は黙っていた。
薬もあるけど取って来ようか、と訊ね、返事が無いのに首を傾げ、男は自分のコップに口をつけた。喉の鳴る音と、コップが再び木の机に触れた音の後、僅かな沈黙を挟んで俺は口を開いた。
「あんたは誰だ」
「はあ?」
男はまた吹き出して、眉尻を下げて笑った。
「何を言い出すんだよ。大丈夫か? もう休んでもいいぞ。部屋まで連れて行こうか」
「そうじゃねぇんだよ……」
俺は両手を握り締めた。男はゆったりと構えてこちらを見ている。
「父さん、だろ」
情けない声が出た。男は目を見開いた。
「そ、そうだけど……。どうしたんだ、ハル」
「何であんたがここに居るんだ」
「何でって、俺の宿じゃないか。大丈夫か、もう寝るか?」
「大丈夫じゃねえ。寝てんだよ。夢なんだよ、全部」
父さんの声色がだんだんと不安げなものになっていく。心配してくれている。それは分かる。
爪を掌に食い込ませたが、痛みは感じなかった。膝が震えた。起きようと意を決して身体を動かそうとしても、夢の中で腕が振り上げられただけだった。意識は完全にこっちにあるのか。わけが分からなくなってきた。
父さんの不安げな視線につかまり、逃げ出したい気持ちになる。
「何なんだよ、覚めろよ、クソ」
「ハル?」
「呼ぶな。何であんたが居る。勝手に俺の夢に出てくんじゃねぇ」
握り拳を力強く膝に叩き下ろすと、父さんは悲しげな顔をした。
「ハル」
「父さんは十年も前に死んだ」
「誰が死んだって?」
吹き出して、父さんは笑った。それから腰を上げ、長い机を迂回して、俺と同じソファに腰掛けた。
よっこいしょ、という声と同時にこちらの腰もやや沈む。すぐ隣に座る人物からは確かに息遣いを感じた、ような気がした。所詮は夢だ。両手で頭を抱え込んで、早く覚めろとひたすら念じた。
横から手が伸びてきて、俺の頬に触れる。望んだ温かみは無かった。
「熱、は無いみたいだな。大丈夫か、苦しいか?」
「うっせぇ」
「どうしたんだよ。お前がこんなに苦しそうなのは初めてだよ。嫌な夢でも見たか?」
今、見てんだよ。嫌な夢を。声には出さず吐き捨てた。
父さんの手が背中をゆっくりと撫でた。
「ここに横になるか?」
「あんたは死んだ」
「いや、生きてるって。やっぱり悪い夢を見たのか?」
「そうじゃねぇ。違う。これが悪い夢だ。父さん、俺は夢を見てる」
馬鹿みてえに頼りない声で、馬鹿みてえな台詞が洩れた。
「今俺は夢を見てる」
「うん」
何かを諦めたのか、父さんはただこちらの話を聞く体勢に入ったようだった。
「父さんは十年前に死んだ。ここに居ちゃおかしいんだよ」
「そうなのか」
「十年も経ってんのに、見た目が変わってねぇもんな。やっぱり夢だ」
「お前が言うなら、夢なのかもしれないな」
父さんは軽く俺の背中を叩いた。
記憶の中でずっと変わらないでいる、その顔面を睨んだ。父さんは微笑んだ。
「変だと思った。お前は俺のことを父さん、なんて呼ばないもんな」
父さんが言う。そう言われてみて、俺も気が付いた。というか、思い出した。
確かに俺は昔――父さんが生きていた頃、この人のことを父と呼んでは居なかった。十年前の自分は血のつながらない養父を頑なに名前で呼んだ。俺の中でこいつが「父さん」になったのは、父さんが死んだ後の事。口に出して呼ぶ機会は無くとも、心のうちではそうなっていた。
「テイアさん、か」
独り言のつもりで呟く。
「おいおい。戻すなよ。そっちのほうが耳馴れてはいるけどさ」
父さんは機嫌良さそうな声色に戻っていた。
俺の背中に置いていた手を引っ込めて、腕組みしながら、ソファの背に大きくもたれている。
「ハルにとっては夢でも、俺には現実なんだなあ、これが」
どこか困ったように、愛想笑いをするように、そういう優しい声で呟く。
「一つ、別々の未来から来た者同士ってことで、話してみようか」
名案だろ、と父さんがはしゃいだ。
「お前が目を覚ましたきゃさっさと俺のことを消してくれても構わないよ」
「それは無理だ。自分の意志では起きられない」
「もしかして、毎朝誰かに起こしてもらってるのか?」
「違う。そういう意味じゃねぇ」
俺が不機嫌に返すと、父さんは声を上げて笑った。
「まず父さんから喋ろう」
人差し指を立て、得意げな顔をする。
「俺は十年前からずっとここに居て、今もハルやシャラやカミュやナージャと暮らしてる」
「待て。今カミュって言ったか?」
「カミュも勿論居るぞ。そっちには居ないのか?」
不思議そうな顔はしつつ、それでも別段気に留めない様子で、父さんは続ける。
「三年前に神殿から帰ってきて、また一緒に暮らしてるよ。あ、仕事は相変わらず神殿だけど」
そんな未来もあったのか、と思った。
父さんは幸福そうに見えた。実際、幸福なんだろうが。
――或いは、それが俺の望んだ"未来"の形だったんだろうか。
「で、こっちのハルは俺のことをまだテイアさん、って呼んでるよ」
そう付け加えて、父さんは悪戯っぽく笑った。父さんは手を伸ばしてコップを手に取り、また数口お茶を飲んだ。コップを机に戻すと、「次はハルの番だぞ」と笑う。
一呼吸置いて、俺は口を開いた。
「俺の、何て言えばいいんだ。俺の世界の父さんは十年前に死んだ」
「十年前な」
「ハウディ王の訃報の後だ。これはそっちでも起きたことか?」
「……ああ。ハウディが死んだのは俺も知ってるよ」
父さんは声の調子を落として頷いた。
「そうか。とにかくその後、こっちではあんたも死んだ。理由とか何とかは誰も聞いてないし、何にも残されてないから知らん。宿に居るのはシャラとナージャだけだ」
「二人だけ? 俺、は居ないとして、ハルやカミュは何処に居るんだ?」
「俺は今年の春にアッズィムに召集された。カウィの部隊は今みんなあっちに居る」
「おお、それはすごいな……」
「カーミルは神殿に籠ってる、あんたが死んでから、俺やシャラと関係が拗れた」
そう説明すると、父さんの表情はどんどん曇った。
父さんは何も言わず、俺も特に話す内容を持たず、沈黙が走る。
階上を足音が通り過ぎる。無言を破って父さんが口を開く。
「そうか。なんだか、父さんすごく悪いことしちゃったんだな」
力無い笑みに、なんとなく喉が詰まった。
「……十年前って、きっと、つまり、あの頃の事なんだろうな。詳しくは聞きたくないけど、何となく分かるよ。お前の言い方からしてもたぶん俺は、その……事故なんかじゃなかったんだろう。俺にも、こっちの俺にも、そうやって死ぬきっかけは確かにあったと思う」
父さんは勝手に喋った。俺は黙って話を聞いた。
それから父さんは大きく息を吐き、組んでいた両腕を解いて伸びをした。
「辛い思いをさせてごめんな」
父さんの手が伸びてきて、また俺の背中に触れた。
「謝られたってどうもしようがねぇよ」
俺は言った。父さんは「そうだよなあ」と返した。
突然、ナージャの声がした。
夢の中での出来事だと思ったが、父さんは何も反応しなかった。無視しているんじゃなくて、聞こえていないようだった。じゃあこの声は俺の居る現実の世界の声か。眠っている俺の耳に、届いている声か。
俺は黙って父さんの腕を振り払った。目を向けると、悲しげな顔があった。
「目を覚ます時間が来る」
「お、本当か」
「意識がはっきりしてきた。俺が今、なんで寝てんのかも思い出した」
言いながら、左腕がちくちくと痛みはじめる。
「もう起きなきゃなんねぇ」
「そうか、そうか」
父さんは頷いてまた腕をこちらへ伸ばし、俺の頭を強引に撫でた。
「そっちのハルにも、ちゃんと起こしてくれる人が居るんだな」
「……言っとくけど、普段はひとりで起きられるからな」
「ははは。それはさっき聞いたって」
わしわしと撫でながら父さんが笑う。つられて俺も少し笑った。
「俺はちゃんと幸せだ。そっちに居る俺も、って……もう生きてはいないんだろうけど。ハルの知ってるテイアもきっと、ちゃんと幸せだったはずだ」
父さんが言った。
「本当に、辛い思いをさせてごめんな」
「謝んなって言ってんだろ」
「謝らせてくれ。赦してもらおうとも思わないけど。……ごめんな」
強引に抱き寄せられた。父さんの声が響くように聞こえてきて、妙な寂しさが押し寄せた。
ナージャの懸命に呼ぶ声が、段々大きくなってくる。
「あっちに、現実に戻ったら、皆に愛してるって伝えてくれ」
「馬鹿言うな。俺の夢の中の話だぞ。夢占いや霊を信じる連中でもないし」
「いいから。頼むよ。な?」
父さんは俺の後頭部をぽんぽんと撫でながら言った。
仕方ねぇな、と呟くと、ありがとうという返答と同時に、俺を包む腕の力が強まった。
「な、な、まだ時間はあるか?」
不意に解かれた腕が俺の両肩を掴み、今一度、真正面から顔を合わせる。
「知らん」
「最後にもう一回だけでいいから、父さんって呼んでくれよ」
「は?」
思わず聞き返した。父さんはニコニコしながら「早く」とねだる。
改めて振られると言いづらい。俺は歯ぎしりした。が、どうせ最後ならと、すぐに思い直した。
「父さん」
「うん。うんうん。良い子だ、ハル」
父さんはしきりに頷いて、目に涙を滲ませた。それが零れ落ちる前に、もう一度俺を抱きしめた。
「ありがとう。ありがとうな」
「……ん」
「俺のことは忘れたっていいから」
それは出来ないと、返そうとして喉が詰まった。
泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。今泣いたら、現実でも涙が出てしまうかもしれない。起きたらすぐ傍にナージャが居るはずだから、さすがにそれは避けたい。
「元気でな。愛してるよ」
きつく締めた腕の力を緩めないまま、父さんが言った。
目を開けた。
ぼやけた視界がゆっくりと焦点を見出し始めると、俺を覗き込むナージャの顔が見えた。
お兄ちゃん、と弱々しい声がした。痛む左手を持ち上げて妹の頬を撫でる。
泣きそうだな、と思っていたら、零れた涙が俺の頬に落ちた。
「ずっと呼んでたの、全然起きないからもう怖くって怖くって」
ナージャが泣きながら言った。身体を起こしかけると、全身に激痛が走った。夢の中の真似して、妹を抱きしめてやることは出来ないらしい。しきりに目元を擦るナージャの頭を撫でる。
随分と都合の良い夢を見るんだな、俺も。そう思った。
「夢を見てた」
俺が言うと、ナージャは一寸置いてこちらへ目を向けた。
「……夢?」
「ああ」
「どんな夢だったの」
俺の掌を両手で包み込んで、ナージャが言う。
「説明するのが面倒なんだが――」
「ダメ。お兄ちゃんから喋りかけたんだから最後まで教えるべき!」
「話さないとは言ってねぇだろ」
俺が言うと、ナージャは唇を尖らせた。
「お前も知ってる人の夢なんだが」
「誰? あ、悪い予知夢とかじゃないよね?」
「それは違うな」
「なあんだ。じゃあつまんないかも」
ナージャは小首を傾げた。
いや、あれが予知夢だったら困る。そう考えてつい笑うと、腹の傷がズキズキ痛んだ。
目を閉じる。夢の中に見た懐かしい顔を思った。
「確かにつまんねぇだろうな」
故人の影は次第に、脳裏から薄れていった。
「でも聞いてくれ。伝言があんだよ」
言うと、ナージャはニコリと笑って頷いた。