東の流星、帰省中につき
戸を開くと、嗅ぎ慣れたにおいがした。
窓を塞いでいた木の板を外せば、お決まりの景色が切り取られる。久しぶりの自宅だ。広い家に住むのがどこか心細くてこの借り住まいを選んだものの、結局、俺が独り暮らしな事には変わりがない。
誰も居ない家に帰るのだと思うと寂しくて、つい足が遠のいていた。
丸々ふた月ほど放置していたけど、部屋の中は意外と綺麗なままだ。
荷物を適当に足元に置いて暑苦しい服を脱ぎ、埃よけの薄い布をひっぺがして寝台に寝転がる。
俺の家の寝床より、アッズィムの宿のもののほうがよっぽど柔らかくて寝心地が良いように思う。 まあ、寝られない訳じゃないから、買い換えようとも思わないけど。考えながら、大きな枕を抱きしめた。
料理も億劫だし、夕餉は外食にしよう。新店の下見も兼ねてだ。
ああダメだ、もう眠くなってきた。早めに報告書を終わらせておきたいのに。
ぼんやりと仕事のことを思い出しながら、それでも起き上がる気にはならなかった。
ゴロンと寝返りを打って身体を返し、重い瞼をすとんと閉じる。
夕方には起きれたらいいな。照明用の油を取りに行くのが面倒だから。
そういえばいつもはあんなに壺いっぱいに買ったりしないのに、たっぷり油が残ってたな。出発前に買い込んだのかな、値段が安くなってたんだっけ、ああ、まあ何でもいいや。 もう忘れちゃった。
――自分の寝言に驚いて目を覚ますと、俺を覗き込む顔があった。
「うわ!!」
慌てて掛布団を頭に被ると、侵入者は「あら」と間の抜けた声をあげた。
「どうして隠れるの?」
「びっくりしたんですよ! 何でウチに居るんですか!」
布団から顔を覗かせながら慌てて返すと、ミランダさんは嬉しそうに笑った。
「シャーディーちゃんが帰ったって聞いたから。おかえり」
「ただいま。……俺、もしかして鍵かけてなかったですか?」
「いいえ、ちゃんとかけてたわよ?」
ミランダさんは寝台に腰かけて、不思議そうにぱちぱちと瞬きした。
「じゃあ、どうしてココへ入れたんですか!」
言つつ上体を起こすと、ミランダさんは「きゃあ」と顔を背けた。
そういえば、眠る前に上着を脱いだんだった。脱ぎ散らかした衣服を手に取り、慌てて頭から被った。ミランダさんは両手で目を覆いつつ、しかし指の隙間からまじまじとこちらを見ていた。
「寝る時に服を着ない癖、直しなさいって言ったじゃない!」
「言いましたっけ、そんな事」
「たぶん言ったわ」
「いい加減ですね。……じゃなくって!」
膝を叩いて話を遮ると、ミランダさんはきょとんとした顔で俺を見た。
「話題を戻しますけど、なんでウチに入れたんですか?」
「なんでって……もしかして入っちゃ駄目だった?」
ミランダさんはハッとして、悲しそうに眉尻を下げた。俺は溜め息をつく。
「何のために鍵をかけてると思ってるんですか……」
「泥棒が入らないためとか?」
「招かれざる客を入れないためですよ」
「あたしのこと? 失礼ね!」
ミランダさんは素早く腕をこちらに伸ばし、俺の右頬を抓った。この怒り方は相変わらず。
顔を横に向けてその手から逃れると、ミランダさんは立ち上がって腰に手をやった。
「シャーディーちゃんがそんなに失礼な子になってるとは思わなかったわ。だから、アッズィムばかりにべったりするのはよしてって言ったのよ、あっちの考えに染まっちゃって。もっと頻繁にこっちに帰ってあたしの相手をするべきなのよ、あなたの仕事には元々――」
「ミランダさん、待って!」
両手を突き出して、どうどう、と宥めるように手を動かす。ミランダさんは大人しく黙った。
俺はどっと疲れを感じながら、寝台のふちに座りなおす。
「だから、そもそも何でウチに入れたんですか、って聞いてるんですよ」
「それは、だって、あたし鍵を持ってるもの」
「……はい?」
俺が返すと、ミランダさんは腰帯に指を突っ込む。
まさか、と思っていると、ミランダさんはそこから赤い紐を取り出した。鍵が一つ、大事そうにぶらさがっている。俺はぷらぷらと揺れるそれを見た。本当だ、俺が持ってるのと同じ形だ。あ、頭くらくらする。
「何で持ってるんすか…………」
俯いて顔を両手で覆いながら言うと、ミランダさんの元気な声が返ってきた。
「あたしは市長の妻ですもの。社宅の鍵くらい簡単に借りられるわよ。シャーディーちゃんがあまりにも帰ってこないものだから、時々ここに来て窓を開けたりとか、お部屋の掃除とかしてたのよ。ね、今日帰ってきたとき、ここ綺麗になってたでしょ?」
ミランダさんは嬉しそうにぺらぺらと捲し立てた。
顔を上げた俺と目が合うと、彼女は実に満足そうに、満面の笑みを見せた。俺もその笑みに応えようとするが、どうしようもなく頬が引きつる。口角がひくひくと動いた。
「ランプ用の油も……買ってくれたんですね……」
「そうよ。でも気にしないで。あれ、シャーディーちゃんのお給料で買ったから」
俺は頭を抱えた。もうやだ何この人。今すぐ帰ってほしい。そしてもう来ないでほしい。
でも、龍髭糖よりも繊細な心を持つ彼女には、はっきりとそう告げてしまう訳にもいかない。
ミランダさんは相変わらず嬉しげに、勢いよく俺の隣に腰かけた。
「ねえシャーディーちゃん、お夕飯はあたしと一緒に食べましょ」
「……俺、今日は繁華街の視察がてら、外食のつもりなんですけど……」
「え? あたしも外食のつもりよ。料理をするとでも思った?」
ミランダさんはニコリと笑った。胃の辺りがもぞもぞする。なんてこった。
再び、頭ががくりと落ちる。こうなったら、仕返しを考えよう。
「じゃあ今晩はミランダさんの奢りですね……ご馳走さまでーす……」
「やだシャーディーちゃん! 女の子にたかるの?」
ミランダさんは笑いながら、俺の背中をバシッと叩いた。
「女の子って齢じゃ……いや、市長の奥さんですし。俺、市長の部下ですし?」
この言葉に、ミランダさんはしれっとした表情で肩をすくめた。
「関係性が分からないわ。あなた、働いてるんだから奢ってよ」
「私は主婦だからって!? 貯金がある癖にー!!」
「シャーディーちゃんこそ!」
「俺の給料で勝手にたっぷり油買ったくせにー!!」
「使うのはどうせ自分でょ。奢ってよ、人のお金で食べたほうが美味しいのよ」
「うわー最低! でもそれすっげーよく分かる!」
「でしょ!」
ミランダさんはポンと手を打ち、満面の笑みを浮かべて喜んだ。
俺は膝の上に肘を置いて頬杖を突きながら、すっかり諦めて、ぼそぼそ呟く。
「ミランダさんて、けっこう俺と考え近いですよね」
「あら嬉しい。でもそれと同じくらいに嫌だわ。あなたドケチだもの!」
「お互いですよ、お互い」
「うふ。まあ自覚が無くもないわ」
「ミランダさんの方が優しいですけどね、俺の部屋の掃除までしてくれるし」
「いきなりなぁに? もしかして口説いてる?」
首を傾げながら悪戯っぽく笑うミランダさんに、俺も営業スマイルを投げる。
「口説いてます。今日の食事代があなた持ちになるように」
ミランダさんは瞳をニッコリと三日月形に細め、とびきりの笑顔を見せた。
「残念。あたしは優しくないわ。今日のご飯代は掃除代って事で。ご馳走さま」
俺は明日朝イチで鍵を付け替えてしまおうと、この時心に誓った。