メイちゃんのお留守番
アルヴィラ市、旧アシャ帝国地区最北の都市。
短い夏を除いてずっと肌寒い時期が続くこの地では、痩せた土地でわずかの牛や豚を飼い、ジャガイモと少しばかりの麦を育て、天然の入り江を利用した港から船を出し、必要なだけの魚を獲って食い繋ぐ。港は冬になると氷が張るため利用できず、住人たちは秋のうちに獲った魚を塩漬けしたものをちまちまと食べて過ごす。
そんな厳しい田舎町の、瓦屋根の住宅街、1人の少女が道端に座り込んでいた。
「お昼には帰るって言ったのに」
少女は何度も繰り返し、ぶつぶつと呟く。
「わたし、指折り数えて待ってたから、間違ってないもん。絶対今日だもん」
抱えた膝に顔をうずめたり、空を見上げて大きくため息を吐いたり。少女の薄い栗色の髪が、ふわふわと風に揺れる。もうじき、昼餉に帰った人々が食事を終え、また職場へと向かう頃合いになる。
彼女はまだ太陽が低いうちから、こうしてずっとここに座っている。
「メイちゃん、ここで何してるんだ」
通りがかった男性が、少女に気付いて声をかける。
「ガラテアさん」
少女ことメイは顔を上げて、男性の名をぽつりと呟いた。
この男性、ガラテアは、アルヴィラの魚市で働いている青年である。子供好きで、メイの"お友達"のうちの一人。彼も一度帰宅して、昼飯を食い、これから職場まで戻ろうとしていたところだった。
「わたし、ミナちゃんを待ってるのよ」
座りっぱなしのまま、メイが素っ気なく答える。
「ミナさん? ああ、今日帰ってくるのか」
ガラテアが独りでに納得して、ぽんと手を打った。
メイはそれを見るなり、みるみる口をへの字に曲げた。
「お昼には」
メイは俯いてとげとげしい声を出した。
「お昼には帰るって言ってたのに。わたし朝からずっと待ってるの」
「朝から? ここで? 1人で待ってるのか?」
「うん」
メイがこくりと頷く。
「今回はネレイドも漁に出てるもんなぁ」
言いながら、ガラテアは彼女の隣にどっかりと腰を下ろした。
「メイちゃんはタラッサの家に居候してたんじゃ?」
「タラッサさんはお仕事。お昼はわたし1人なの。ごはんは作り置きしてもらって」
「ちゃんと食べに帰ったか?」
ガラテアが訊くと、メイは黙って首を横に振った。ガラテアが短くため息をつく。
「天気もいいし、遅くなる理由がないんだが。大漁だとかで、ちょっと延長してるのかもな」
道の向こうに目を向けながら、ガラテアが独り言のように呟く。
メイもそれを真似て、同じ方向ををぼんやり眺めた。
次第にちらほらと、民家から人が出て、働き手の男性たちが各々仕事に戻り始めた。
港へ向かう人、すぐお隣の店屋に入っていく人などが、道端に座る二人を見ては、軽く会釈して去ってゆく。牛飼いの男があくびをしながら目の前を通り過ぎていったとき、突然ガラテアが立ち上がった。
「よし、俺も仕事に戻らねば。メイちゃん、一緒に来るか?」
少女は首を傾げた。ガラテアがにっと笑う。
「これから港へ行くんだ。船も帰るだろうし、向こうでミナさんを待とう」
言いながらにやりと笑うと、それを見たメイもぱっと笑顔になった。
「そうね。そうする!」
メイはすっくと立ち上がり、お人好しなその青年の上着の裾を、きゅっと掴んだ。
船から降りた青年を迎えたのは、少女の腕いっぱいの抱擁だった。
「ミナちゃん、おかえり!」
「ただいま!」
少女の小さな腕が、青年の首を抱きとめる。
無造作に伸びた空色の髪、漁師には似つかわしくない細い手首と白い肌。
今しがた駆け寄ってきた少女を抱き上げて、にこにこと笑っているこの青年が、メイが痺れを切らしつつ帰りを待っていた、ミナー・バフルその人である。彼もまた、港へ帰る日を心待ちにしていた。
三週間におよぶ漁から帰ってきた船。
そこから降りてくる漁師たち、またそれを迎える住人たちで、人だかりができた。
ミナは今回の漁で、彼にとっては初となる船長を務めていた。集まった人々がミナを見つけては「お疲れ様」と肩を叩き労う。ミナもぎこちない笑みを浮かべ、照れくさそうに頬を染めつつそれに応えた。
暫く様子を眺めていたガラテアが歩み寄り、ミナに声をかける。
「おかえり。お姫様はもうずいぶんお待ちかねだったぞ」
ガラテアがちらと見やると、少女は照れ笑いを浮かべた。帰りました、とミナが微笑む。
「ガラテアさんが面倒を見てくださっていたんですか?」
「いや、今日たまたま会って。道に座り込んでたから、連れてきたんだ」
「そうでしたか。どうも、ありがとうございます」
ミナが頭を下げかけると、ガラテアがそれを止めた。
「今日はもう帰りな。残りは俺らで片づけるから」
「え、でも、それは悪いですから……」
「船を降りたら、あんたは船長じゃなく、メイちゃんの家族だからな」
気の良い笑顔でガラテアが言う。
ミナは申し訳なさに眉を下げつつ、ありがとうございます、と頭を下げた。
ミナの腕から降りるなり、メイはその青年の手を大事そうに握った。
それから二人は、船員や住人たちに声をかけてまわり、人ごみを抜けて帰路につく。メイは繋いだ手をぶんぶんと振り回す。満足げにミナの横顔を見上げては、ひとりでニコニコと笑った。
「ミナちゃん、いっぱいお魚とれた?」
「うん。夕方に分け前を届けてもらえるから、今晩食べようね」
「うん!」
元気な声でメイが答えると、ミナもにこりと笑った。
この二人は街でも有名なほど仲良しである。
漁から帰ってきたミナを大喜びで迎えるメイ、それから二人がかたく抱擁し合うのが、もはや港の名物となっている。彼らをよく知る住人たちが、今日のように、仕事を取り上げてまでミナをさっさと帰らせてしまうという事も、実はしばしば見られることだ。各々、街が育てた子供であったから、先輩漁師や港の大人は、誰もが父母であり兄姉のような存在。つまりは、二人まとめて周囲に可愛がられている、といったところか。
もっとも、ミナにとって仕事は苦痛ではなかったし、職に対する誇りや愛情もある。
そういう状況になると彼は、断りづらいのか嬉しいのか、微妙な表情を浮かべながら、ぺこぺこ頭を下げながら帰ってゆく。それもまた、周囲の生ぬるいからかいの一因となった。
「あ、メイちゃん」
「んー?」
ミナはふと、思い出したように声をかけた。
「僕、お風呂入れてないから汚いんだ、あんまりくっつかないほうが……」
言いながら手を離そうとすると、メイはむっと眉をしかめて、握った手に力をこめた。
「汚くないよ。ミナちゃん海のにおいがするよ、いいにおいだもん」
「いい匂い、なのかなあそれ……。ううん、ありがとう」
ミナは微笑んで、メイの手を握り返した。
住宅街の中途、メイが足を止めて両手を広げ、「おんぶ!」とねだった。
ミナは笑いながらしゃがみこみ、少女は大はしゃぎで、その背に飛び乗るようにしがみつく。
その後ろ首にぴっとりと鼻をくっつけてから、メイは満足そうに頷く。
「やっぱりミナちゃんは海のにおいね」
その言葉に、ミナはなんとなく照れくさそうな曖昧な笑みを浮かべた。
民家の隙間からするりと黒猫が出てきて、二人の様子を窺う。
それから二人が通り過ぎていくと、鼻をすんすんと鳴らしながら、港のほうへ駆けていった。
帰った漁船から小魚のおこぼれがもらえることを、猫たちはよく知っているのだ。