街の名士に会いました
青年は市民と観光客と商人たちが入り混じり、ごった返す市場を歩く。
右腕に抱えたカゴには山並み摘んだジャスミンの花。首から下げた木の箱には 茶色い小さな香油瓶。
頭に巻いた鮮やかな紫色の布が、道行く人々の目を引く。
彼の名前はレダ。染物職人だが、今だけは訳あってジャスミン売りをしている。
「ジャスミン、あるよ~。精度文句ナシの香水、あるよ~」
レダは右に左に声をあげながら、喧騒を縫って進む。
どうも、この混雑では売り歩きには不便だ。そう考えて、お茶屋が張った天幕に目をつけ、机と椅子がたくさん並ぶ中から、一番通りに近い質素な机を選んだ。彼は香油瓶の箱を一段外して、机上に置く。
箱の重みに耐えて凝り固まった首や肩を拳で軽くたたきながら、辺りを見回す。午前の間に通ってきたのは、人を掻き分けねば進めないほど混んでいる大通り。それと打って変わって、日差しを遮る天幕の下には客はまばらだった。これから昼餉を迎える市民たち、特に女性は食事の段取りに忙しい。買い物の合間にちょっとお茶でも、という訳にはいかないのだ。
せかせかと足を進める通行人の群れから目を背け、振り返る。
と、レダの目が1人のターバンの男を捉えた。
この時間帯にターバンを巻く職の男性が1人でお茶をしているのは珍しい。
あいつにしよう、と唇を舐めて、レダはジャスミン入りの籠を抱え、その男に歩み寄った。
「お兄さん、恋人でも待ってるの?」
「……え?」
レダの呼び掛けに、男が顔を上げる。顔の輪郭をすっぽりと覆うように巻いたターバンが、目の際までをすっぽり隠していた。まるで女性のするような巻き方だ。見れば、豊かで長い睫毛を持った、美しい瞳の男である。
レダはニコニコと、得意の人懐こい笑みを浮かべて話しかける。
「こんな時間に、仕事を抜け出してまで会いに来るなんて、よほど良い娘さんなんでしょ」
言いながら、レダは男性に真っ直ぐに手を伸ばす。
「こんなターバンなんて巻いてないで、デートの時くらいお洒落をしなきゃ!」
「え。な、何するんですか……」
戸惑う男性に遠慮もなく、その首元に手をやっては、ターバンの布をするりするりと解いた。
「ここに、こうでしょ」
上機嫌に言いながら、カゴからジャスミンの生花を摘み上げ、男性の耳元を飾る。
片側の髪を耳に掛け、気持ちばかりの髪型変更。最近流行りの"花飾り男子"の出来上がりだ。
レダは満足げに頷いて、一歩後ろへ退いて男性の顔を眺めた。
「ほら、こんなに上品に……なって……」
瞬間、レダは心臓が跳ね上がったように思った。
困り顔で眉を下げる茶髪の男のターバンの下には、右頬に黒刺青の二本線。
レダは男の頬から脳天、つま先を通って自分が飾ったジャスミンの花まで視線を滑らせ、まじまじと男の風貌を眺めたあと、口をあんぐりと開けて、伸ばした指先を男に向けた。
「あ、あんたもしかして……ハーミス・バラカート!!」
レダが大声で叫ぶ。
と同時に、周りの机に居た老人や、通りを歩く人々が振り返った。
彼の言葉はご名答。
レダにターバンを取り上げられた男、つまりはこのアッズィム市の名士ハーミス・バラカート氏は、一応この目前の少年を制止しようと椅子から浮かせた腰、伸ばした腕を固まらせて、顔の表情をも引きつらせた。
興奮ぎみに今一度、レダは名士の長い睫毛をまじまじと見た。
「何であなたがこんな所に――」
「ハーミス様!」
彼の問いかけを遮って、周囲に居た市民たちが駆け足で集まってくる。
あっという間にハーミスが取り囲まれ、レダは人の波に押されてどんどんと後ずさる。背の低いレダが抵抗もかなわず「クソ!」と悪態をつく一方で、噂通りの長身のハーミスが、人波からひょこりと頭ひとつぶん飛び抜けては、苦笑いを覗かせていた。
「ハーミス様、先月の銭湯の改修ありがとう」
「私の父が病に臥せていて、是非あなたにお会いしたいと」
「来年の市長選には出るんだろ。俺達絶対にあんたに入れるよ!」
「今度うちの店へ来てくださいよ!」
「話に聞く通りの美男じゃない」
「ウチの息子をアッズィム商会へ入れて!」
「パパがファンなの。お友達になってあげて」
押し寄せてきた女性や老人、子供までもがハーミスの服を掴みながら、がやがやと騒ぎ立てた。
次から次へと投げかけられる言葉に応えきれず、ハーミスはただ何度も「はい」と返す。レダといえば、ついにその集団から押しのけられて、すっかり道まで出てきてしまった。
折角、公式商会にコネを作る好機なのに、逃してなるものか。レダは大きく息を吸い込む。
「おい、ちょっと! せっかく俺が話してたのに!」
と、拳を振り回しながら抗議するレダの背後から、手が伸びてくる。
肩を叩かれたレダが振り返ると、見知らぬ赤毛の男性が、引きつった笑みを浮かべていた。
赤毛の男性は震える指で天蓋の下の騒ぎのほうを指示し、レダの胸倉を掴む。
「あんたでしょ、ハーミス様のことをバラしたの。どうしてくれるのよ!」
「ど、どうって……っていうか何、その喋り方。あなた誰?」
「カリストよ。ハーミス様の補佐官よ!」
「嘘だ、あの人は独りであそこに座ってたぞ!」
「そうよ。だって、ハーミス様がゴネるから、飲み物を買いに……ああ、もう!」
喚きながら、カリストはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
そのまま、まるでゴミでも投げ捨てるように乱暴に、レダの服から手を離す。続いて、手に持っていたジュースを、傍を歩いていた少年にやる。「あんた、これあげるわ!」と唐突に押し付けられた少年は呆気にとられた。
カリストは集団の方へ駆け寄って、人の波にぐいぐいと身体をねじ込んだ。
が、一歩でも憧れのハーミス・バラカートに近づこうと意気込んでいる人々を、そう簡単には押しのけられない。カリストは憤りを隠そうともせず、怒りに満ちた表情でレダの方を振り返った。
「そこのあんた!」
「な、何」
レダの肩がびくりとはねる。
「あっちの、肉屋の隣の倉庫に、ガニメデってヤツが居るわ。呼んできて」
「何で俺が……」
「あんたの起こした騒ぎでしょうが!」
「うっ……な、何て言った? ガニ?」
「ガニメデよ、ガニメデ! 早く行きなさい、走って!」
カリストが一喝すると、レダは弾かれたように肉屋の方へ走った。
何で俺がこんなコトを。あの人混みに商品を置きっぱなしだ。お駄賃もナシに使いっ走りさせられる羽目になるなんて。金もなさそうなターバン男になんて声をかけるんじゃなかった、いや、実際は大金持ちだけど。
レダは暑さと苛立ちに頭の中をぐるぐるとさせながら肉屋を通り過ぎる。
入り組んだ街路を駆け抜けて、件の古い倉庫に辿り着くと、両開きの扉を勢いよく押し開けた。
「ガニメデ!」
レダが大声で叫ぶ。中にいた数人の男のうち、ひときわ長身の、屈強な男が走り寄ってきた。
呼ばれたガニメデは不思議そうな顔をしながら、ちびのレダを見下ろす。
「あたしがガニメデだけど。何か用事?」
「その喋り方、あんたもかよ。じゃなくって、今すぐ来て!」
「ごめんなさい。仕事中なのよ。困るわ」
ガニメデは眉尻を下げ、背後の商人達の方を振り返る。
「カリストって人の頼み!」
レダは有無を言わさんと、ガニメデの腕を掴んで引っ張った。
「あんたの主人でしょ、ハーミス・バラカートが大変なの!」
「何ですって!?」
レダの言葉に、ガニメデの目つきが厳しくなった。
こっちだよ、と言って走り出すレダのすぐ後ろを、ガニメデが追って走る。
今しがた辿ってきたばかりの街路を一目散に抜けて、すぐさま現場に駆け付けた。
状況を見るなり、ガニメデは両手で口を覆って飛び跳ねた。
「まあ、何なのこの騒ぎ!」
「ガニメデ!」
人ごみの中から真っ直ぐに腕が伸び、人々の頭の間からカリストが顔を覗かせた。
カリストはようやくハーミスの居る場所まで辿り着き、主人に向かって伸びてくるたくさんの手を、小言を飛ばしながら必死に払い除けていた。思わぬ大混乱を受けて、ガニメデはおろおろとそれを眺める。
「カリスト、どうしてこんな事に……」
「説明は後! 早くして、人がどんどん増えて行くのよ」
「分かったわ」
頷くなり、ガニメデはずんずんと人混みに歩み寄った。
不安げな表情で見守るレダをよそに、大きな図体のガニメデは易々と女性たちを押しのけ、あっさりとカリストに合流した。彼に押しのけられた女性たちが、怒りの野次を飛ばしまくる。
「ハーミス様、大丈夫?」
「ああ、ガニメデも来てくれたんだ……」
すっかり疲れた様子のハーミスが、力ない笑みを浮かべた。
そのか細い声は、周囲の喧騒に掻き消されつつある。
カリストがぱんぱんと手を打つ。
「はい、さっさと帰るわよ。変装はもう無意味だわ、大通りから馬に乗りましょ」
「城内では乗馬は禁止だよ……」
「ハーミス様、しっかりして。ここは新市街よ!」
「ハーミス様、大丈夫? アタシが抱き上げて運びましょうか?」
ガニメデの言葉に、ハーミスの笑みが引きつった。
「いや、自分で歩けるよ」
「そう? ちょっと残念だわ」
いつかの、俗に言うお姫様抱っこによる救出劇を思い出しながら、ハーミスは手を横に振った。カリストも同時にそれを思い出し、そういえば前にもこんな事あったわよね、と大きなため息をひとつついた。
「じゃ、頼むわね、ガニメデ」
「もちろん」
カリストの言葉に頷き、ガニメデはくるりと背を向けた。
その腰にハーミスが手を回し、更にそのハーミスの腰をカリストが掴む。
「ハーミス様、行かないで!」
騒ぎ立てる人々には目もくれず、先程と同じく人波を割るようにして、ガニメデが大股に集団を抜けてゆく。大きな盾か壁が前進していくような具合だ。
ハーミスの姿を見て、周囲の人混みがそこに加わろうとする。カリストが舌打ちする。
「これじゃ駄目ね。走るわよ」
カリストの言葉に、間髪入れずにガニメデが駆け出す。
ハーミスが平坦な地面になぜか躓きかけながら、その後ろを懸命に走った。
大ブーイングの喧騒を抜けたところで、不意にカリストの服が引っ張られた。
走りながら振り返ると、先程の少年、そして事の仕掛け人――レダが服の裾を掴んでいる。
「ちょっと、何であんたが着いて来んのよ」
「俺の商品があの群れの中に残ってたんだよ!」
商会勢の横を走りながら、レダは声を張り上げた。
「さっきの騒ぎじゃきっと、無くなったかダメになった。弁償してよ!」
「あんたが招いた騒ぎじゃないのよ!!」
「そ、そうだけどさ……いや、そうじゃない!」
カリストとレダが息を切らせながら、やいやいと騒ぐ。
大通りに向かう角を曲がったところで、ハーミスが後ろを振り返った。
「ジャスミン売りの君」
「はいい!?」
急に声をかけられたレダが、驚いて飛び跳ねる。
ハーミスは視線を前方に戻して、ようやく聞こえる程度の声量で、静かに喋りかけた。
「よかったら名前を……」
「えっ、あ、レダと申します!」
「ありがとう。レダ、よかったらまた出直してくれるかな」
「で、出直す?」
「邸宅の門番に名前を告げれば中へ通させる、その時に弁償するよ」
「え、ホントに!?」
レダが驚きと緊張で声を裏返らせる。
名士は流し目がちにレダの方を振り返り、うんうん、と笑顔で頷いてみせた。
馬屋の前に来ると、ハーミスとその護衛2人はひらりと馬に乗る。
戸惑うレダの方を見下ろして、ハーミスが今一度声をかける。
「僕は君の事知ってるよ」
「へ? 俺はただの染物屋ですよ?」
「そうだろう。西区画にある工場の、紫の色の担当だ」
「えっ…………」
レダはぽかんと口を開けた。
まさにその通り、彼はアッズィム新市街の西区にある染色工場で、貝紫を扱っている下っ端職人である。
「君の染め布を気に入っている商人が、僕の友人に居るんだ。思わぬところで君の名前を知れて良かった。今度、僕もじっくり作品を拝見しようかな。騒ぎはごめんだから、君を呼びける形になってしまうけど」
じゃあ、またね。言いながらハーミスは手綱を引く。
馬が向きを変え、主人の掛け声と共に駆けだして、彼の背中はみるみる遠くへ消えてしまった。
この場に一人残されたレダは、いつまでもそちらを眺めて、呆けて立っている。
彼はその只中ぼんやりと、街の名士が最後に見せた、柔らかな微笑みを思い出していた。
右頬の黒い二本線。これは噂通り。
癖の強い茶髪、細身で長身。これも噂通り。
誰をも魅了する美しい顔立ち。悔しいけど、もちろんこれも噂通り。
「ハーミス様の笑顔には同性でもときめくって、誰か言ってたっけなぁ……」
ぽつり、レダが呟く。
「確かにそれも、分からないでもないかもしれない」
少年は力のこもらない指で頬を掻き、慌てて周囲を見回した後、肩をすくめた。
名士の置き土産のターバンを、彼が自身のトレードマークとするのは、それから間もなくの事である。