死にかけの遠い夜
僕は忘れない。この手がいつか、再びあなたを見出すまで。
息苦しさに目が覚めた。
視界の黒をなぞって視線を泳がせる。
徐々に暗闇に慣れた目が、ぼんやりと浮かび上がる絨毯の模様を捉えた。
四角い窓に切り取られた月光が、まっすぐに床を照らしている。
体を起こしてまず深呼吸。ひどく残酷な夢がまだ、頭に響くように残っていて、とても落ち着けるような状態ではなかった。首と手と胸の部分にぐっしょりと汗をかいているのが分かる。
僕は大きく息を吸い込んでから布団から這い出すようにしてベッドを降りた。
ぐらり、傾きかけた体を立て直して、窓の傍へと歩く。ひんやりとした空気が頬に触れた。
そういえば今晩は寝る前に窓を開けておいたんだっけ。
曖昧な記憶を辿りながら月を見る。
上半分が夜に呑まれ、半円だけになった明るい月がぽつりと浮かんでいる。そこから淡い光が広がって、月からは随分と離れた位置で遠慮がちに小さな星が瞬いているのが見てとれた。
何だったっけ。そう、化身だ。月は太陽の夜の姿だ。
いつか聞いた話を思い出しながら、ゆっくりと息をした。
激しく打っていた鼓動ももう落ち着いた。
街でひときわ大きな邸宅から見下ろしても、通りには黒い影がじっと動かず黙っているだけで、人影などは全く見当たらない。時間は分からないけど、とにかくまだ目を覚ますには早すぎる時間なのだと思った。
月の暦は知らないけれど、こんなに深い夜にも、これ程に明るいものなのかと、ぼんやり考えた。
――月は太陽の化身だ。
昼間空を支配していた太陽が、姿を変えて現れるのだ。
頭の中で懐かしい声がする。この会話はよく覚えている。
かつての主は砂漠に立って、真っ直ぐに月を見上げながら、独り言のように呟いた。
僕は同僚と一緒にその後ろに立ち、立派な絵画を眺めるような気持ちで月を見たような気がする。
いや、もしかしたら月なんて見なかったかもしれない。
別の星を見ていたかもしれないし、あの人の背中をじっと眺めていたかもしれない。
とにかく僕はじっと立って、あの人の話を聞いていた。
「だけど王よ、月と太陽ではまるで明るさが違うではありませんか」
同僚が間抜けた声を出した。主は振り返って同僚をじっと見た。
「何を言う。月も太陽も、それぞれに明るさが変わる。決まった明るさなどない。月は満ち欠けをするし、太陽の機嫌次第で暑い日も涼しい日も出来る。彼らは気まぐれなのだ」
主は再びこちらに背を向けて、月を見やった。
同僚はふーんと適当な返事をして、同じように月を見た。
「新月と同じように、」
主が口を開く。僕はその耳元でピアスが揺れるのをじっと見ていた。
「太陽も、その姿を隠してしまうことがあるそうだ。私はまだ見たことがないが。太陽も欠けたり、完全に消えてしまうことがあるのだ。あの完璧な球ですらも。地上の誰もが焦がれる、あの神の天体ですらも」
半ば独り言のように、主は言った。
同僚も僕も、それに返事をしなかった。
頭の中で、遠い思い出の主の言葉と、さっきの夢がぐるぐる廻って入り混じる。
印象的な黄褐色の肌、緑がかった美しい青色の髪、月光をはじく長い睫毛、聡明さを感じさせる藍の瞳。あの人の姿やいくつもの言葉が、記憶の断片が、何度も脳内を行き来した。心臓が再び激しく脈打ち初めて、冷たい空気を通した喉が詰まったように苦しくなる。
言いようのない不安に包まれて、僕はその場にしゃがみ込んだ。
時間が足りない。急がなければ何もかも失ってしまう気がする。おそらく僕には、休んでいる暇など無い。早くしなきゃ、本当にあの人に会えなくなってしまいそうなんだ。
――それとも、急いだところでもう二度とあの人には会えないのかもしれない。
脳裏をよぎった不吉な予感にはっとして、両手でぐしゃりと頭を描いた。
あの同僚は今どこで何をしているのだろう。
いや、居場所ならばあの少女に教えてもらった。すぐにでも会いに行かなければ。
早いうちに手を打っておかなければ、ずっとあちらへ赴くことはできないかもしれない。
急ごう、夜が明けたら準備を始めなくては。
認めたくないけれど、いま僕が頼れる相手がいるとすれば、それはきっと彼だけだ。
何としても。僕は先へ進まねばならない。
自分のため、それ以上に、どこか遠い場所にいるはずの主のために。
再び、あの人の元へ跪く日を迎えるために。
やるべきことはたくさんある。やりたくないことだってたくさんある。
それもこれも、我が主のためならば。
貴方の名も、姿も、声も、国も、居場所も。
辿った軌跡も、思い出も。
貴方の願いも。
必ず、僕が。