会長と補佐官と'地下'の話
「テミスト君」
ハーミス様が急に声をあげた。
いつもより随分と低いその声に、私と、それからテミストさんの肩がぴくりと反応する。
恐る恐る見ると、主人は意外にも、いつもの優しい笑顔でテミストさんを見ていた。
「ごめんね。相手をしたいのは山々なんだけど。今日は忙しいんだ」
「え、あ、ああ」
普段の威勢をすっかり失くしたテミストさんが曖昧に頷く。
「エウロパ、悪いけど皆に伝えてくれるかな」
「は、はい!」
急に自分に向いてきた話題に、慌てて背筋を伸ばす。
「今晩は誰も僕の部屋に来ないように、って」
どこか裏のあるような、なんとなく重い、そういう声色だった。
「カリストに、"下に行く"って伝えれば、話は通じるから」
ハーミス様はこちらを一瞥して、にこりと微笑んだ。
聞き慣れない冷たい声のせいか、その笑顔もどこか貼りつけたような、温度の無い作り笑いに見えた。じゃあ、おやすみ、と告げてから、主人はするりと部屋を出ていく。こちらの返事を待つ間もなかった。
そばを通り過ぎていく、その一瞬。彼の顔から笑みは消えていた。
固く厳しい表情で去ってゆくその背中に、掛ける言葉はもう何も無かった。
静かに閉まった扉を、呆然と見つめていたテミストさんが、不意にこちらを振り返る。
私も黙ったまま、そのいぶかしげな表情を見つめ返した。
いつもと様子が違うなあ、というのは、お互いが無言で確認し合った事実だった。
休憩室の先輩達に話すと、皆が「ああ、なるほど」という微妙な表情で頷いた。
ガニメデさんはテミストさんを呼んで自分の横に座らせ、小さなカップに注がれたミントティーをすすめる。テミストさんは相変わらず納得のいかなさそうな表情のまま、それでも「ありがとう」と小さく呟き、砂糖の入っていないお茶を一気に飲み干した。
私はカリストさんに手招きされて、その隣に腰掛ける。
カリストさんは脚を組んで、枝毛を探しながら、素っ気なく口を開く。
「ハーミス様、他に何か言ってなかった?」
「いえ。ただ、"下に行く"と言えば通じるから、と仰ってました」
「そう。分かったわ。伝言役ありがとうね」
「はい……」
私は肩をすくめる。
向かいのソファに座ったイオさんが、焼き菓子の皿をこちらに回した。お菓子を食べる気分でもなく、私が手を振って断ると、イオさんはきょとんとした表情をして、それからすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべながら、その皿をテミストさんの顔に向けてぐいぐいと突き出した。
テミストさんは眉間の皺をいっそう深め、「やめろ!」と一喝した。
笑いが湧く休憩室。このままじゃ、さっきの話題が流れてしまう。
私は痺れを切らして、カリストさんのほうに向き直った。
「あの!」
食べかけたお菓子を慌てて呑み込むカリストさん。
「どうしたの?」
「何なのですか、ハーミス様の言う"下"って!?」
緊張と焦りで声がひっくり返った。
カリストさんは一度目を丸くして、それからガニメデさんのほうを振り返った。
ガニメデさんは首を傾げて困ったように笑っている。イオさんも曖昧に微笑みながら、ひらひらと手を振った。その無言のやり取りを、私ははらはらしながら見ていた。
「何なんだ。感じの悪い奴等め」
間に挟まれたテミストさんが声をあげる。
「仲間の内で隠し事は良くないな。早く教えろ」
「部外者に言われても。貴方が知りたいだけじゃありませんの?」
「やかましい!」
イオさんにつつかれ、テミストさんが再び吠えた。
皆が声を揃えて笑った後、部屋がまた静まりかえる。
沈黙を打つように咳払いしてから、カリストさんが徐に口を開いた。
「そうね、言わないままで居るのは嫌な感じだわ」
ぴんと背を伸ばし、膝の上で握り合わせた両手に力を込める。
カリストさんは真っ直ぐに私と視線をあわせた。
「"下"っていうのは、地下のことよ」
「アッズィム市に地下街なんてあったか?」
テミストさんが口を挟む。カリストさんはちらりとそちらを見やる。
「あるわよ。昔々の遺構ね。貯蔵庫や貯水池なんかが点々と」
駆け回ってるくせに知らないのね、との声に、テミストさんは頬をかっと紅潮させた。
「まあ地下街も有るけど、ここで言う"地下"は、この邸宅の地下牢の事なの」
「地下牢、ですか……」
私がおうむ返しに言うと、カリストさんは頷いた。
「詳細は知らないけど、多分、ハーミス様は誰かに会いに行ってるのよね」
この言葉に、先輩たちがかすかに頷く。
「最低でも月に一度は行ってるかしら。今日みたいに、朝が来るまでは絶対に誰にも会わないの。夕食後に姿が見えなくなって、朝にはいつも通りベッドに寝てる。いつ帰って来てるのかは分からないわ。そもそも、どこから地下へ行ってるのかも分からないし。誰も同行を許されないのよ。
ただ、アタシ達が勘付いてるのはお見通しみたい。"下に行く"とだけ伝えるようになったわ」
カリストさんはすらすらと説明を加えた。
私は何も言わずに、ただ俯いてソファの柄を睨んでいた。テミストさんも何も言わないまま何か考え事をしているらしく、休憩室にはまたしばしの沈黙が生まれた。その居心地の悪い時間を、ガニメデさんが破る。
「資料室の整理をした時に、ここの地下が牢になってるって知ったの」
沈黙を破って、ガニメデさんがやさしい声を響かせた。
「ハーミス様からは何も聞いてないわ。仄めかされてはいるものの、結局は全部憶測よ」
「そうですか……」
やっと口を開いて返事をしたけど、声は少しかすれた。
注目を集めるように、カリストさんがぱんぱんと手を打つ。
そのまま、手をこちらへ伸ばして、私の頭を撫でた。カリストさんがにかっと微笑む。
「いつかきっと本人から説明があるわよ。それまで一緒に待ってましょ、急ぐ話じゃないわ」
その綺麗な青色の瞳を覗き込みながら、私は深く頷いた。
ハーミス様には如何せん謎が多い。
すっかりここの一員になったつもりで、張り切って仕事をしていても、時々こんな風に疑問にぶつかる事がある。その度、自分がこの場で浮いているような、私だけ何も知らないでいるような、寂しい気分になる。
けれどきっと、何も言わないでいることも皆の優しさなのだと、最近は考え始めた。
別に焦る必要はないんだと思う。
きっとこれからも、ハーミス様は私をここに置いてくれると思うし、先輩達だってきっと、私が一人前になるまで。いや、一人前になってもずっと、私の先輩として面倒を見てくれる気がするから。
再び談笑の始まった狭い部屋の中で、安心に似た気持ちを得、ほっと心が落ち着いた。
ソファの端に座ったテミストさんだけが、ただ一人、腕組みのまま不服げに小さく舌を打った。
「……やあどうも、総督様」
「その呼び方はやめてください」
「随分放置されたから、いよいよ死刑かと思いましたよ」
「ねえ、ヘイダルが見つかったんだ。今度会いに行って来ます」
「へえ、役者を揃えて復讐パーティーって事ですか?」
「誰から誰に対しての?」
「誤魔化さないでくださいよ。私の首も落ちますよね?」
「私達はそんな下らない事はしません」
「そうですか。まあ貴方のお慈悲を信じますよ、リドワーン様」
「…………その呼び方は、」
「貴方はどうしても昔を否定したいんですね」
「違う。お前のように、アシャ時代の遺物となるのが嫌なだけだ」
「アシャ時代の遺物、ね。なかなか面白い事を仰る。
彼らは気付いていないようだ、過去に囚われる愚者はどちらなのか。
王の影に縛られ続ける、旧時代の亡霊はどちらなのか」