かつて文明が初めて誕生したとされる東大陸。
 中央部に帯状の砂漠を有するその大地には、古より種々の民族が独自の生活を営み、数々の王朝が興亡したと伝えられる。今日語り継がれるアシャ帝国が成立したのも、同大陸での話である。
 アシャは砂漠のおよそ西端にあたるオアシス都市から頭角を現した、ひとりの商人によって打ち立てられた統一国家であった。シーマファ市の名士にしてアシャ建国の王、商人の名はアーシャ=ハウディと言う。
 いつかアシャの民と呼ばれた人々が、国の滅びた現在でも愛してやまぬ、太陽の子である。

 シーマファのオアシスは、大陸全土を含めても類を見ないほど大きなオアシスである。砂漠や草原をひた走って訪れた遠来の旅人や商人たちは、交易路の終着点にあたるこの街で、その長旅の疲れを癒す。
 豊富な地下水は市民達の生活にも不可欠で、人々は日に幾度となく水汲み場に訪れては、各々のかめや木の桶を満たしてゆく。農耕と行商の双方に向くこの地では、人々が最初にこのオアシスを発見した三千年の昔から一度も水が絶えたことが無いと云われている。



 いま、一人の少女が皮袋を抱えて、水汲み場に腰掛けていた。
 少女は薄手の布で出来た簡素な衣服を纏い、ぶかぶかの深い緑のズボンを、腰布で強引に留めて着用している。空色と、緑がかった空色、ふたつの色が不思議と二分された頭髪は印象的に見て取れるのだが、様々な髪色の民族が多数出入りするこの街の中に居ては、少女のそれも特に人目を惹きつけるほどは珍しがられなかった。

 ここの水場はいつでも人がいっぱいだ。少女は退屈そうな表情で、目前に続く行列を見た。
 水汲み場と言っても、その用途によって様々なものがあるのだが、少女が並んでいるのは飲用水の井戸のものだ。他の生活用水が欲しいなら、シーマファの街中に張り巡らされた水路から自由に汲めばいい。胃腸に自信のある人間なら、そういう用水路から得た水をそのまま口に入れてしまったりもするのだが、少女の場合はそういう訳にもいかなかった。彼女自身は腹の弱いほうではないのだが、いま汲みに来たのは、宿の客に飲ませるための水なのだ。
 少女は井戸のすぐ横を流れる、透き通った水路をぼうっと眺め、それから対岸に目を向けた。
 植物で編まれた中振りの籠にたくさんのナツメヤシが詰め込まれ、冷えた水にさらされていた。あれの持ち主は、食べ物を放置したまま何処へ行ったんだろうか。いい加減に胃も空いてきた昼前、少女は迷子のナツメヤシをこっそり盗み食いしてしやろうかという気さえした。

 暫く井戸を占拠していた旅の集団が、やっと場所を開けると、行列はぞろぞろと前に進んだ。
 砂埃を体中に積もらせた旅人達が、瓶を自分の馬に背負わせているすぐ横で、少女もやっと井戸にありつく。大人達がずらりと十人ほどで四角い石垣を取り囲む中、少女は小さな身体をねじ込むようにその場に加わり、備え付けの木桶を穴の中へ投げ入れた。
 下の方で微かに水の音を聞き、人々の手に揉まれてぼさぼさに痛んだ編み紐を力いっぱいに引く。
 少女の細い腕に手繰り寄せられて、木桶はたっぷりの飲み水を連れて帰ってきた。少女はここでやっと、わずかに顔を綻ばせた。皮袋に水を移し、袋の口を紐でしっかりと縛る。
 少女はよいしょ、と呟きながら、皮袋を肩に提げた。

「ジャンナトさんのとこのじゃないか」
 少女の顔を見て、向かいで水を汲んでいた中年の男性が言った。
 顔を上げ、男性の豊かな顎鬚を見、少女は明るく笑みを浮かべる。

「羊肉のおじさん。こんにちは!」
「こんにちは」
 肉屋を営むその男性は少女の持つ皮袋に目をやり、「お使いか?」と訊ねる。少女は大きく頷いた。
「あら、ナージャちゃんね。こんにちは」
 二人の会話を聞いた青物屋の女性も顔を上げ、少女に微笑みかけた。
 少女、ナージャはこちらにも向き直ってこんにちは、と元気な声を返し、それから眉尻を下げた。

「みんなあの旅団に足止め食らってたんだねえ」
「うん。長いこと待たされたもんだ。余所者は手際が悪くて困るな」
 肉屋の店主が言うと、周りの大人達が手を動かしながらくすくすと笑った。ナージャの右隣で木桶を引っ張り上げていた青年が、ここの井戸は地元の者しか使わないのに、と呆れ顔でぼやいた。

「ナージャちゃん、荷物は重いかしら?」
 青物屋の女性が、手を拭いながら言う。視線の向いた皮袋を、ナージャは軽々と掲げてみせた。
「いや。あんまりたくさんは汲んでないよ」
「じゃあ悪いけど、向こうに冷やしてるナツメヤシを持って帰ってくれないかしら?」
 青物屋がナージャの後方を指で示す。
「あれ、おばさんのナツメヤシ?」

 ナージャは水路の向こう側で冷やされているナツメヤシの籠に目を向けた。青物屋は「そうよ」と頷いた。
「あなたの宿に届けるものなんだけど、今日は配達屋さんに頼めなくて」
「ああ。お姉ちゃんも言ってた」
 今朝の炊事場での姉との会話を思い出しながら、ナージャはうんうんと頷く。
「ごめんね。お姉さんにも謝っておいて」
「うん。困ってないし大丈夫だよ。夜までに届けばいいし」
「じゃあ急ぐもんでもないのね。水を汲んでから持って行こうと思ってたんだけど……よかったら、ナージャちゃんにお願いしてもいいかしら?」
「お安い御用ってところ!」
 右腕を振り上げながらナージャが言うと、青物屋は礼を言いながら笑った。

 ナツメヤシの籠を受け取ると、ナージャはそれを頭に載せ、上機嫌に青物屋の顔を見上げた。
「いやあ、それにしてもよかった」
「何が?」
「並んでる時、お腹が減って仕方ないから、勝手に食べちゃおうかと思ってたんだよねえ」
 ナージャが言うと、青物屋はまあ、と言って大げさに驚いたような仕草をする。
 周りで話を聞いていた大人達が、声を上げて笑った。

「手癖の悪さは相変わらずか。いたずらナー坊、だっけか?」
 肉屋の男性が水の入った瓶を背負い荷台に並べながら、愉快そうに声をあげた。

「そのあだ名はもう捨てたの!」
「そうかい、そうかい。帰り道に頭の上のデーツを盗み食いするなよ?」
 肉屋が言うと、再びどっと笑いが湧く。
 籠を脳天に積んだナージャは一人、にやりと得意げな表情をしてみせる。
「おじさん。悪さってのは、とにかくばれなきゃいいんだよ」
 井戸を囲んだ人々がちらりと見やると、ナージャはその場に仁王立ちした。

「もしばれたら、その時はこう言えばいいの」
 少女のぴんと立てた指が、周囲の人々の視線を集める。
「あなたのナツメヤシは空腹の私を助けました。私を飢えから救ったナツメヤシの恩徳は、持ち主のあなたのものになります。その徳で、あなたは天の国に相応しい人間へと一歩近付いたことでしょう」
 私はあなたの楽園行きを助けた、だからあなたは感謝すべきです。
 ナージャはぺらぺらと喋りながら歩き出し、いま一度水汲み場の一同を振り返って「どう?」と笑った。

 肉屋は荷物を背に負いつつ、少女の言葉に苦笑いする。
「物乞いの持論だな。だけどナー坊、その口はあんたのお姉さんには通用しないぞ」
「そんなの分かってるよ。つまみ食いなんてしないでさっさと帰るもん!」
 ナージャは噛みつくように言い返す。
 肉屋が肩をすくめるとナージャは水汲み場の一同へと顔を向け、「さようなら」と笑う。

 いまだ仕事の終わらぬ大人たちは、口々に挨拶を返したあと、昔から見知ったその少女の悪戯を思い返しながら、相変わらずのナー坊の後ろ姿を見送ってはくすりと笑って作業に戻った。