ラクダと宝石、それから金の糸
――その日、少年が出会ったのは、とある大商人と、彼が築いた宝の山。
アッズィム市街、快晴。
街から少し内陸へ進んだ場所に広がる砂漠の影響だろうか、街の空気は埃っぽい。容赦なく照りつける日差しも相まって、息苦しささえ感じる。遠方から訪れる旅人にとって、これほど過酷な気候はない。
少年は唾を飲み込んでみたが、喉の渇きが誤魔化される事はなかった。
綺麗に整備された路地のわきにはたくさんの露店があって、大きな絨毯に座りこんで楽器の調整をしている楽団や、髪結い屋に並んで自分に順番の巡ってくるのを待つ女性、たくさんの荷物を両手に抱えて満足そうな表情でどこかへ帰ってゆく老婦人――とにかくたくさんの人でごった返していた。
少年もその雑踏の中に混ざり、ふらふらとした足取りで道を歩く。彼の風貌が、他の旅人と比べてもずいぶんと薄汚れたものであるために、しばしば通行人から不快そうな視線が向けられる。
肩に掛けた荷物を引っ張り上げ、少年はくしゃくしゃの髪の毛を大雑把に掻く。鮮やかな薄緑色の髪からは、長旅の中で身体じゅうに付着した砂塵がぱらぱらと落ちて、少年の狭い肩にうっすらと積もった。
露店の列を抜けた先の、大きな石造の建物の陰に入ると、少年は道端で本を広げる男性に目をやった。
ごほんと一つ咳払いをしてから、かすれた声で話しかける。
「あー、すみません。道をお尋ねしたいのですが」
「…………」
男性は依然として分厚い本に視線を落としていた。
少年がもう一度咳払いする。声の調子を整えてから、「あの」と再び声をかけると、男性はやっと少年の顔を見上げ、不思議そうに自分の顔を指差した。少年がうんうんと頷く。
「失礼、夢中になっていました。何か御用ですか?」
男性が立ち上がる。
「いいんです。僕、バラカートさんを訪ねて来たんですが、道が分からなくて」
少年がその名を口に出すと、男性は少し眉をしかめて、少年の体を上から下へさっと見回した。
「ああ、それならこの先の、ほら、あの大きな屋根がそうですよ」
男性が前方を指差す。少年はその指先を追い、示されたほうへと目を向ける。
街区をいくつか向こう、砂塵で霞んだ一際大きな飾り屋根を見つけると、「ああ」と呟いた。
少年は男性のほうへ向き直って、深々と頭を下げる。
「どうも、ありがとうございます」
「いえいえ、お役に立てたなら何より」
互いに軽く会釈をすると、少年はくるりと体の向きを変え、先ほど眺めていた方向へと歩き出した。
少年の姿が建物の向こうへ隠れて見えなくなると、男性は再び腰を下ろした。
「どこの者だろうなあ、頭を深く垂れていたぞ」
隣で黙って二人の様子を見守っていた老人が声をかける。
「さあ……このご時勢に奴隷かと思いましたが、ハーミス様を訪ねるのなら、見当違いですな」
「あの方が奴隷をとるはずがないでの。不思議な子供じゃったわい」
老人は満足そうにあごひげを撫でながらそう言うと、足元に広げた自分の本を読み始めた。
民家と呼ぶにはあまりに大きな建物の前で、少年は一つ深呼吸をした。
先刻、道をたずねた場所から見てとれた屋根は、実際に近づいてみると想像よりもはるかに大きい。その下にどっしりと構えた建物も、屋根に釣り合うだけの広さがある。
こんな賑やかな街の大商人なんだから、家もでかくて当然か。考えては、少年は目前の扉を見た。
内部の広々とした造りを想像させる、大きな玄関扉。少年は決心したようにきつく口を結び、強く握った拳でその戸を叩いた。コンコンと、扉の雰囲気に似合わぬ軽い音がする。
両開きの扉は素早く開いた。中にいた赤毛の男性が、いたずらっぽい笑顔で彼を出迎える。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
男性は両手を広げてみせた。ケープのような、ポンチョのような形状の、見慣れぬ衣服が目につく。
少年は軽く頭を下げ、「こんにちは」と小さく返した。
赤毛の男性は少年に歩み寄ると、その背をぽんぽんと叩いた。
「さ、こっちよ」
その男性の、あまりにも女性じみた独特の口調にリアクションをとる暇もない。
少年は赤毛の男性に背中を押されて足を踏み出す。天井の高い、広いエントランスから続く廊下を歩くと、隙間なく敷き詰められた美しい絨毯が、少年の一歩一歩を優しく受け止めて、彼の長旅に疲れた脚をいたわった。
点々と続くランプのやわらかな光や、花のような良い香りに、かえって居心地の悪さを感じる。
重い足取りで進んでいくと、やがて廊下の最奥部に、黒い扉が現れた。
男性は少年と向き合うと、腰に手を当て、うーんと唸った。
「ずいぶん汚い格好じゃない。ウチの主に会うって時に」
独特の口調で、ため息混じりに言う。
「すみません。到着が随分と遅れたので……」
「知ってるわよ。仕方がないわね。時間も過ぎてるし、早く入りましょ!」
俯きかけた少年の両肩が男性に捕まり、そのままくるりと身体を扉のほうへ向き直らせる。
少年はここでもまた一つ深呼吸をしてから、金でできたつるつるのドアノブを握った。
「失礼します」
少年がゆっくりとドアを開くと、先ほど廊下で気にしていた香りが、より濃厚になった。
目前に正方形の部屋が広がり、床には繊細な幾何学模様の絨毯、壁にも草花をかたどった美しい絨毯が飾られていて、部屋の隅々までが、あちこちに灯されたランプに優しく照らされていた。
部屋の中心部には、異国情緒あふれる装飾の施された、細長い椅子と机がぴしりと整列している。
向かい合った椅子の一方に、男性が一人、深々と腰掛けていた。
少年は呆気にとられた様子で、その男性をまじまじと見た。
男性はふわふわとしたくせの強い茶髪で、上品な緑の衣服を纏っている。
彼の椅子の後ろには、従者らしき人物が三人。金髪の少女と、眼鏡をかけた黒髪の男性、そしてひときわ体の大きな、屈強そうな男性が並んで立っている。なんてちぐはぐなんだ、と少年は思った。
そしてその全員が、今しがた入室した自分に、好奇の視線を向けていた。
椅子に座っていた男性が立ち上がる。立ってみると、すらりとした長身である。
少年が緊張から背筋を伸ばすと、男性は柔らかな笑みを浮かべて、少年に話しかけた。
「ようこそ、シャーディー。長旅できっと疲れただろう、楽にしていいよ」
男性は自分の向かいの椅子を手で示し、少年にそこへ座るよう促した。
少年はというと、極度の緊張で動けずにいた。荷物を床に落としたままで、男性の顔を見上げている。
「シャーディー」
男性がもう一度呼びかける。
「あっ……!!」
少年が我に帰り、弾かれたように腕を振り上げ、胸に引き寄せた両手をせわしなく握り合わせた。
「今日からお世話になります、シャーディー・マウルーフです」
少年が慌てた様子でそう言うと、男性は目を細めて笑った。
「名前は聞いているよ。ここまでの道のり、ご苦労様でした。そこへ座りなさい」
「は、はい。失礼しました!」
シャーディーはそそくさと移動して、男性に頭を深く下げてから、椅子へ腰掛けた。
ふんわりと優しく受け止められた身体が思っていたよりも深く背もたれに埋まると、思わず「うおっ」と声が漏れる。向かいに座った男性とその背後に並んだ従者たちにそれを笑われると、シャーディーはばつが悪そうに、背筋をぴんと伸ばして座りなおした。
「ええと、すみません。私はすごく汚いのに、こんな立派な椅子に」
シャーディーが男性と目を合わせられずに、俯きがちになりながら言った。
男性は改めてシャーディーの容姿を観察して、「うん。随分とみじめな格好だね」と返した。
シャーディーの顔がみるみる赤くなる。それを見た男性が首を傾げる。
「どうかした?」
「い、いえ。本当に、すみません」
「気にしないでいいんだよ」
シャーディーが頭を下げると、男性はにこりと笑ってみせ、脚を組んでから話を切り出した。
「僕はハーミス・バラカート。話はもう聞いているだろうか」
「はい。こちらに参上するのを楽しみにしていました、バラカート様」
シャーディーがやっと顔を上げ、詰まりがちに返すと、ハーミスは目を細めた。
「そんなに堅苦しくしなくていい。これから仲良くしてくれるんでしょ?」
「あっ、いえ……いや、はい! よろしくお願いします!」
慌てたシャーディーがまた勢いよく頭を下げる。
ハーミスもそれを、半ばからかうように真似て、よろしくお願いします、と軽く頭を下げた。
「君はこれから三年間、うちで暮らして商売を学ぶ……という約束で良かったね?」
「はい。ナル=スーク市長より、そのように伺っております」
「と言うと、君の意思でやって来た訳ではないのかな」
「え? あ、いえ。私自身の希望で参りました!」
シャーディーが、今度は力強く答える。ハーミスはうんうんと頷いた。
「よかった。三年なんてきっとあっという間だから、頑張ってね」
「はい。お世話になります」
ハーミスの後ろで、従者たちがうんうん、と頷く。
「きみの街とは生活様式が違うから、初めは慣れないかもしれないね。しかし、我々はアシャの同胞だ。分からないことがあれば、なんでも聞くといい。街の住人も含め、私たちはみんな、君を歓迎するよ」
「はい……!」
シャーディーが嬉しそうに笑う。
ハーミスは目を丸くして、その様子を見つめた。
それから上体を反らせて、背後の従者たちに声をかける。
「では皆、各々よろしく頼むよ。エウロパは、シャーディーに湯の用意を。イオは厨房へ行って食事の支度を指示しなさい。ガニメデは今こちらにいるお客様全員に、今日の件を伝えること」
「お任せください、我が主!」
三人が声を揃えて、きびきびと返す。
彼らのして見せた、胸の前で腕を組む独特のポーズを、シャーディーはまじまじと眺めた。
三人の従者たちは素早く部屋を出て行き、命令を遂げるべく各々の持ち場へ向かう。
ハーミスはそんなシャーディーの様子を観察した後、楽しげに微笑んだ。
「君のところにはない風習なのかな。興味があるかい?」
「は、はい。すみません、あんまりじろじろと、失礼でしたね」
慌てたシャーディーが返す。
「構わないよ。そうだな、取り急ぎ教えるべきだなと思った事なんだけど」
嘗めるようなハーミスの視線を受けて、シャーディーがまた大げさに背筋を伸ばした。
「君のする、頭を下げる動作はうちにはないんだ。まずは挨拶を覚えなきゃね」
「はい!」
「うん。それじゃ、食事までにしてもらうことがあるから」
ハーミスは頷いておもむろに腰を上げ、少年をちょいちょいと手招きした。
応接室の扉の前には、彼の最後の従者が待ち構える。初めにシャーディーを出迎えて、案内してくれた赤毛の男性が、自信たっぷりな表情で、主人の次の指示をあおっていた。
「カリスト、彼を部屋へ案内してくれるかな」
「もちろんよ」
「後でエウロパが呼びに行くから。入浴の指示と、身支度を整えてあげて」
「やあねえ、乙女にそんなことさせるなんて!」
カリストが頬に手をあてて腰をくねらせ、それを見たシャーディーが驚いて、半歩後ろへ退いた。
「身のなりに関しては君が一番頼りがいがあるんだ」
爽やかな笑みを浮かべて、ハーミスが言うと、カリストは誇らしげにはにかんだ。
「お任せくださいませ、我が主よ」
「よろしくね。じゃあシャーディー、また後で」
「あ、はい!」
ハーミスが部屋を出て行く。
足音の一つも立てないが、彼の動作にはいつも、バラの良い香りが伴った。
突っ立ち呆けていたシャーディーの腕を、カリストが小突く。
「ぼさっとしてないで、アタシ達も行くわよ」
「あ、すみません!」
素早くシャーディーが自分の荷物を抱えあげ、二人も正方形の客間を後にした。
ふかふかの長い廊下を歩きながら、前を行く男性の見事な赤毛を、ぼんやりと眺める。
それから少年は、この地で過ごす三年の月日を思って、荷物をきつく抱きしめた。