「本気で言ってるのか、ネメシス」

 剣幕。唸るような低い声に、ヘイダルは右手を引っ込めた。
 今しがた叩こうとしていたその戸の向こうには、何やら話し合う連中が居るらしかった。
 いけない時に訪ねたかなと気まずく耳を澄ませるも、「声が大きい」と嗜めた誰かの言葉の後にはもう、聞き取れるほどの声はあがらなかった。
 ぼそぼそとかすかに響くのを聞きながら、声の主を考える。誰が来てるんだろう。ネメシスの部屋に来客があるのは珍しい。さっきの声はおそらく副班長だ。ネメシスの班で、彼についで力のある男。じゃあもしかして、集まってるのは班の連中かもなと、ヘイダルは思った。

 話の邪魔をすれば叱られるはずだ。終わるまで大人しく待っていようと、静かに腰を下ろす。
 じっと座りこんで、あくびを一つ二つし、いよいよ退屈に飽いて部屋に帰ろうかと立ち上がりかけた時、廊下の奥から「よう」と呼びかけるものがあった。
「ヘイダル。廊下で何やってんだ、ネメシスなら部屋に居るだろう」
 ファドルは手持ちのランプを持ち上げて、不思議そうに少年を見た。ヘイダルもはっとして立ち上がる。

「いや、なんか話をしてるみたいで」
 言いかけたところで、後ろの戸が勢いよく開く。驚いて振り返ると、予想通りの顔。副班長のジャアファルがひょっこりと半身を出して、ヘイダルの顔をちらりと見た後、奥に立つファドルの顔を見て「げっ」とまずい顔をする。お前ら、いつから居たんだ、と声をかけるジャアファルの耳を、返事より先にファドルがつまんだ。
「いつから居たんだ、じゃない。報告さぼりやがって。風呂の前に目を通せと言っただろうが」
「いててて。指示書はちゃんと見たよ」
「見たら名前を書いておけと何度言えば。すぐ帰れ、ハウディ様が待ってるんだぞ」
 二人の言い合いにまぎれて、室内の面々が廊下へ顔を覗かせる。それに続いてネメシスが出てきて、ヘイダルの肩へぽんと手をやる。ヘイダルが振り返るのと同時に、その手は少年の身体を勢いよく壁に押し付けた。
 驚いて見上げると、冷たい視線がまっすぐにヘイダルの目を射抜いた。ネメシスが先に口を開いた。
「何か聞いたか」
「俺は何も」
 慌てて返すと、男は背を丸めて顔を近づけた。本当だろうなと迫るように、刺すような目が覗いてくる。

「おいネメシス。ジャアファルを少し借りてもいいか」
 ひとしきり弟を叱りつけたファドルが声をかける。ネメシスは気怠そうに振り返った。
「好きにしろ」と手短に返すと、ファドルはすまんな、と頷く。彼に首根っこを掴まれていたジャアファルがその手を振りほどき、ネメシスを睨んでふんと鼻を鳴らして、たちまち不機嫌そうに背を向ける。
 ファドルは「おやすみ」と一同に声をかけてから、さっさと歩き出した弟の後ろへ続いた。
 おやすみと呑気に返す班員のわきを、早足にネメシスが通り過ぎる。ネメシスに手首を掴まれたヘイダルも、ぱたぱたとその背を追いかける。室内へ入ったところで「痛いなあ」と文句を垂れると、放り捨てるようなしぐさで手を解いて、ネメシスが振り返った。

「部屋の外に居たか。いつからだ」
「少し前だよ。ちょっと相談があったけど、話をしてるみたいだったから待とうと思って」
 ヘイダルが答えると、ネメシスはその目をじっと見つめた。戸口に突っ立っている部下たちを追い払って、絨毯にどっかりと座り込む。その動きを追いながら「何を怒ってるんだ」と訊ねるも、ネメシスにじろりと睨まれて、ヘイダルは口をへの字に曲げた。
「大事な話だった? 俺が聞いたら困るような?」
 おずおずと訊ねる少年に、ネメシスは一度溜め息を吐いて、「そうだ」と返した。

「班の話だからお前には関係ないがな」
「でも、作戦自体はうちも一緒にやるのに。……極秘の任務、とか?」
 ネメシスはついと視線を滑らせる。「子供が首を突っ込むな」と返すと、ヘイダルは忽ち顔をしかめて、「俺は子供じゃない」と噛みついた。
 横目に少年を睨んでから、ネメシスは面倒そうに眉を寄せた。
「大体そんなところだ。と言えば、これ以上深い説明が出来ないのは分かるか」
 冷たく言い放つ。ヘイダルはしかし納得のいかない心持ちながら、「分かったよ」と肩をすくめた。

 主人が彼に「極秘の任務」を言い渡した例は過去にもある。
 まだヘイダルや、彼の相方が軍内の高い位置づけに無かった頃の話。かれらが本当に子どもとして扱われていた時期、主人の信頼を最も得ていたのがネメシス。力及ばずで世界を知らぬ子どもたちにはとても頼めず、また明かせもしない任務を、密かに言い渡していた。

 でも、今回は少し様子が違う。ヘイダルはゆっくりと腰を落とし、ちんまりと絨毯に座った。
 先程の剣幕を思い出しながら、ネメシスの横顔をじっと見つめる。"作戦"が本当にハウディ様の指示ならば、さっきのジャアファルの言葉は何だったのだろう? ジャアファルは作戦にはよく従うし、もし腑に落ちないことがあれば、文句をつける相手はハウディ様だ。なんだってそこでネメシスを睨むのか分からない。
 あいつがネメシスに抗議したならだ。任務を言いつけたのは、本当はハウディ様じゃなくて――

 思案のなか、視線に気が付いて、少年ははっとした。
 目を合わせると、ネメシスがふと微笑む。いやな笑い方だ。ヘイダルは手の内にじっとり汗をかいた。言い様のない居心地の悪さに、何か言い訳でもするように、徐々に視線を落としてしまう。
「何を考え込んでいるんだ」
 いたずらに、からかうように、ネメシスが問うた。
「いや。なんていうか、どうも気になって」
「あの人からの命令だと言うのに、何を疑うことがある」
 問われて、ヘイダルはごにょごにょと言葉を濁した。男はじつに愉快そうに目を細めた。

「それとも、お前はまさかこの私を疑っているのですか?」

 ヘイダルが顔を上げる。貼りつけたような、見慣れた笑顔がこちらを見ている。
 一間置いた後、ヘイダルは「いいや」と答えて、相手の視線を避けるようにまた目を背けた。

 かれの言葉は欺瞞に満ちている。ヘイダルはぼんやりと思った。いつからか、その仮面の裏も透いて見えるようになってしまった。昔は俺も、これにすっかり騙されるほうの人間だったんだ。この男の手玉に取られて、体よく使われる手駒のひとつ――ただの駒でいられなくなったのを、幸とすべきか不幸とすべきか、自分にはまだ分からない。けれど。
 詰まったような具合の喉に、無理やりに唾を呑みこむ。
 それからヘイダルは、笑うような悲しむような、曖昧なまなざしを彼に向けた。

「ネメシス。二人だけで居る時はさ、敬語やめてよ。なんか寂しくなる」
 ネメシスは真っ直ぐに少年を見た。
 その表情にか言葉にか、驚いたように目をみはり、またそれをふと細めて、「そうだな」と呟いた。