滑り落ちるその先
目を塞いで、二度と振り返りはしないまま
一.
晴天。抜けるような青さの中、白い砂と、そこに紛れて薄灰の衣服がぽつりぽつりと立っている。
砂漠に近い荒野に陣営を置いた建国軍の兵たちは、みな一様にきちんと制服をまとって、詰襟のそれにだらだらと汗を流しながら、剣や槍や、もしくはそれを模した木の棒を各々に振るう。
その脇に控えた天幕に座るのは幹部の面々。悠然と構えては、部下たちの訓練を眺めている。
頭取のハウディは新調した武器の具合を見、隣ではリドワーンとネメシスが、帳簿に墨でしるしをつけたり、ふたりでそれを覗きこんだりして、何やらぼそぼそと相談しあう。
彼らと少しの距離を置いて、敷物の隅に胡坐をかきながら、ヘイダルは唇を尖らせた。
部下の訓練に浮足立って意気揚々と剣を抜きかけたところ、お前が加わると訓練を遊びにしてしまうだろうと、ハウディに呼び戻されたのだ。
それでいざこちらの天幕へ来てみれば、横の二人が小声で囁き合う以外にはとくに会話も無く、ひどくつまらない。たまには組織を俯瞰しろと言いつけられたものの、せっかくの時間を退屈に過ごすくらいなら、下っ端に戻ったほうがましだ。けだるい暑さの中、身体を動かさねば食欲も湧かないというものを。
ちらり見やると、リドワーンとネメシスが、顔を寄せ合って帳簿に視線を落としていた。
ネメシスが字列を指でなぞり、リドワーンがそれを追って、目印をつけたり線を引いたりする。ヘイダルはそれをしばらく眺め、ぷいと顔を背けた。この二人が仲良くするのは面白くない。普段ならば、放っておくとすぐに口論を始めるかれらの間に入り、たしなめて仲裁するのは自分の役目だ。
自分を板挟みにして睨み合う関係のくせに。俺を差し置いて仲良く内緒話なんてしちゃって。
時にはしゃぐようなリドワーンの声に、ヘイダルはますます不満をつのらせた。
暫くそうしていると、天幕へ顔を覗かせるものがいて、ハウディに声をかける。
ハウディが頷くと、マスルールは「よし」と頷き、振り返っては声を張り上げる。「休憩」の一言を聞くや、兵士たちがわあっと騒いで、荷積みのらくだの群れや天幕のそばへ駆け寄っては、かたいパンをかじったり、水の入った皮袋を傾けた。
マスルールのところに盗賊兄弟がやってきて、がやがやと話しながら、三人連れ立って歩いていく。ヘイダルはその背をぼんやりと目で追った。視界の隅でリドワーンがくるりと体の向きを変え、ハウディに話しかける。
「ハウディ様、僕達もお昼を食べてきますね」
「ここで食べないのか?」
「ええ、向こうの者と相談事がありますから。何か入用の物がありますか?」
「いや。特には」
分かりました、と頷いてリドワーンが立ち上がり、ネメシスも無言でそれに続く。一歩踏み出しかけて、思い出したように振り返ったリドワーンが、端に座る相方へ声をかけた。
「ヘイダル。君も一緒に行く?」
問われたヘイダルはむっとして、俺はいいよ、とつっけんどんに返した。
リドワーンは一寸その顔を見つめた後、そう、と返すなりさっさと歩いていった。
がやがやと騒ぐ声を天幕の横に後ろに聞きながら、ハウディはそばの従者の様子を気にして、控えめにその横顔を眺めた。ヘイダルは、プフとかいう背もたれの無い低い簡易な椅子に顎を乗せて、実につまらなさそうに外を見ていた。
おい、と声をかけると、慌てたように背筋が伸びて、なんですか、と勢いよく返ってくる。
「昼食をとらないのか? ネメシス達と一緒に行けばよかったのに」
「ハウディ様が食べてからでいいです。あいつらについて行くと邪魔だろうし」
「そうか?」
ハウディはまた、呆けた横顔を見つめる。
その部下が珍しく縮こまっているのが気の毒に思えて、おもむろに腕を組んではふたたび口を開く。
「リドワーンとネメシスだがな」
「へ?」
ヘイダルは振り返って、ハウディを見る。
「兵の様子を名簿に書き留めているんだ。新しくうちへ来た者の力量を測っている」
「ふうん。新しい奴の顔なんて分かるんですかね?」
「どうもリドワーンが全員の顔と名前を把握しているらしい」
そりゃすごい、あいつなら出身地まで覚えていそうですね、とヘイダルが笑うと、ハウディも微笑んだ。
ハウディの手前に若い兵が二人跪き、薄布に包んだ飾りパンをすっと差し出した。「これは?」とハウディが問うと、兵らはにまにまと笑って、視線を交わしあった。
「アスランの奴が作ったんです。巧いでしょう」
「剣は下手なくせに、これに関しては女よりも器用で」
「おい、やめろ、恥ずかしいから!」
大声をあげながら、一人の青年が割って入る。ハウディと目が合うと、青年はしぼむように項垂れた。
お前がアスランか、と声をかけると、青年はこっくりと頷いた。
「そうか。面白いものだな。覚えておこう、アスラン」
ハウディが言うと、パンを差し出した二人の兵がわっと騒いで喜ぶ。
アスランのほうは顔を赤くして、ありがとうございますと声を絞り出した。
いただいていいのか、と訊ねるハウディに、三人は揃って飾りパンを差し出す。ハウディがそれを受け取ると、どやどやと喜んで大騒ぎしながら、若者たちは去っていった。
ハウディはヘイダルのほうを振り返って手招きし、せっかくだから食べておけ、と声をかける。
ヘイダルはぺこりと頭を下げ、いただきますと呟いてパンをちぎり、その生地が柔らかいのに驚いた。
「飾りパンてのは、こんなふうに上に模様をつけたのを言うんですか」
パンをむさぼる合間にヘイダルがふと聞くと、ハウディは手を止めて頷く。
「そうだな。ふつうは祝い事のときに、家の女が焼くものだ」
「ふうん。お祝いごとのパンは柔らかいんですね」
「祝いでなくても柔らかいのは食べる。お前は初めて食べるか?」
ヘイダルが頷くと、ハウディはふと視線を落とした。
そういえば、私のところで食べさせるのは、日持ちのする固いパンばかりだな。ぼんやりと思い出しては、その少年を哀れに思ってか、今度からはこっちを焼かせるか、と問う。ヘイダルはしかし、腹に溜まればなんでもいいですよ、と笑った。
「アルバからの兵は精鋭が多いからな」
主人はもぐもぐとパンを頬張ってから、ふたたび口を開く。
「貴重な兵力をどう分配するかで二人とも真剣に相談し合っているようだ」
「リド達ですか? まあ、作戦組んで動かすのはあいつらですもんね」
「ああ」
そっけない返事で会話が終わると、少しの間、ひたすらパンをちぎっては口へ運ぶ。
がやがやと賑わう天幕の周囲を、ジャアファルの怒鳴り声と、少数の兵の悲鳴が駆け抜ける。続いてマスルールの声が聞こえると、騒ぎはすぐにおさまった。おおかた、ジャアファルがまたひどいふざけ方をして叱られてるんだろうなと、ヘイダルは思った。
彼が自分のぶんを食べ終わって、ぱんぱんと両手をはたくと、ハウディはまた気まぐれに話を切り出す。
「アスランというのは変わった名だな」
「そうなんですか?」
「どこかの訛りかもしれない。おそらく、私の故郷ではアルスラーンと呼んでいる名前だ。子音の並びが近い」
「訛りったって、たいして違わないじゃないですか」
「そうか? ……なんとなく、こう、落ち着きのない響きに思うんだが」
「ハウディ様は神経質なんすかねぇ」
二人がぼちぼち話していると、今度はファドルがやってくる。
ファドルは頭取に微笑みかけた後、「お茶を沸かしましたので」と、盆に乗ったカップをハウディに手渡した。それからヘイダルにも同じものを与える。慣れた動作で、香ばしい茶が注がれる。
二人が口々に礼を言うと、ファドルは満足げに頷き、またどこかへ去っていった。
続いて、軍の問題児であるふたりの少年兵――カリストとラシードが包みを持ってやって来て、干し果物をいくらかハウディに手渡した。それから、傍に置いてある飾りパンを見てキャッキャと騒ぐ。ハウディが数枚とって渡してやると、大喜びで礼を言っては駆けていった。去り際、一緒にと誘われたのを、ヘイダルは曖昧に笑って断った。
騒がしい奴らだ、とヘイダルがため息交じりに言うと、ハウディは微笑んだ。
「ハウディ様と居ると、どんどん食べものが増えていきますね」
「そうだな。自分も腹が空いているだろうに、世話焼きが多いものだ」
シナモンの香るチャイをぐいと飲みほして、ハウディは干し果物の包みを渡す。
「お前にもいつか話したが。ゆくゆくは、ネメシスに常備軍の世話をしてもらおうと思っている」
「建国後のはなし、ですか」
「ああ」
ハウディは一息置いて、いつものように腕を組んだ。
「ネメシスの班は国軍の基軸になる。だから今回の兵配置が重要なのだ。いっとう悩む必要がある」
「なるほど」
ヘイダルは短く返し、デーツを口に放りこんだ後、思い立ってハウディのほうを見た。
「もしかして、慰めてるんです? 俺が二人の輪に入れてないから?」
ハウディはひとつ咳払いをし、「別に」と呟いてはそっぽを向く。ひとりで静かにしているのが気の毒で放っておけない、と、横顔に書いてある。
まったく、一番の世話焼きはあんたですよ。心のうちで吐いて、ヘイダルは愉快に笑った。
一時おいて、ファドルが大きく手を打つ。
騒いでいた若い衆が訓練に戻っていくと、残りの幹部もそそくさと天幕へ戻ってきた。
「感触はどうだ」
「はい。まあそれなり、ですね」
ハウディに声をかけられ、リドワーンが微笑む。
リドワーンは名簿をぱらぱらと捲って、ネメシスに声をかけ、兵のほうを指す。ネメシスは小さく頷きながら、かたい面持ちでその先を眺めた。二人はふたたび声をひそめて、何やら相談を始める。
ヘイダルもまた、その横顔をちらりと見やり、相変わらずの不服顔でプフに寄りかかった。
二.
晩。大きな隊商宿まで引き上げ、そばに流れる細い川で沐浴を済ませたあと。
ヘイダルはランプも持たず、中庭の月明かりに目を凝らして、廊下をぺたぺたと歩いた。雑魚寝部屋にいる兵の話し合う声がかすかに聞こえる中で、いちだん煌々と明かりの漏れる戸の前へ。扉の向こうからは予想通り、聞き慣れた声が漏れてくる。やっぱりなと思いながら、軽快に戸を叩いた。
どうぞ、という声に続いて扉を開ける。部屋の真ん中に、書類を囲んで座り込む顔がある。
ネメシスは来客を一瞥して「お前か」と呟いた。部屋のあちこちにランプが置いてあって、ぜいたくに室内を照らしあげている。ヘイダルは二人のすぐ傍に座り込んで、片手に持ってきた盆からカップを手渡す。
「ファドルがお茶を淹れたから持ってけってさ」
「ははあ。奴は軍のお茶くみ係にでもなったんですかね」
「ハウディ様がずっと飲まされてるよ。褒めるもんだからファドルも得意になってさ」
「すっかりハウディ様に懐いたねぇ」
懐いたってお前、動物じゃないんだからさ。ヘイダルが言うと、リドワーンはくすくすと笑った。
ヘイダルは散らかった書類に目をやり、まだやってたのか、とぼやく。リドワーンが頷く。
「そろそろ終わろうかと思ってたところ。部屋でもう少し作業があるし」
「あー、製図?」
「うん。朝までに終わればいいんだけど」
「朝までやらないでも。明日に回してちゃんと寝ろよな」
ヘイダルが言うと、リドワーンは困ったように笑って、僕もそうしたいんだけど、と肩をすくめた。
「明日はラシードと相部屋だって聞いたから」
「それは……作業どころじゃないな」
「だから、今日中にほとんど完成させておきたいかなって」
相方の返事に、ヘイダルは口を開きかけて、それをためらった。
嫌なら誰かに言って部屋を代わればいいだろ、とか、俺が代わろうか、とか。浮かんだ言葉はあったものの、自分が言わなくても、彼が望めば手前でそうしていただろうと思いとどまった。
軍ではまだまだ新参者のラシードと、リドワーンは親しくしているようだった。
古株の自分が、せっかくの間柄に割って入ってまで物申す場面では、おそらくないのだ。
ゆっくりとお茶を飲んで、ごちそうさま、とカップを盆に返してから、リドワーンが立ち上がる。
「じゃあ、僕は帰るから。二人ともおやすみ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ぱたりと戸が閉まり、だんだんと足音が遠ざかる。
ネメシスは周りの書類をまとめ、一枚一枚めくっていく。ヘイダルはその横で、腰帯に携えていたナイフを抜いて、丁寧に磨き始めた。不意に、紙のこすれる音が止み、ネメシスが声をあげる。
「良いんですか、お前」
「なにが?」
彼も手を止めて、ネメシスを見る。
「リドワーンに会いに来たんでしょう。近頃イスナーンの子供に構いっぱなしですもんね」
イスナーンの子供というのがラシード、あるいはそれと仲の良い、カリストの話だ。
ヘイダルは、奇しくも自分や相方と同い年だという、ふたりの新参の少年兵たちの顔を思い浮かべて、口をへの字に曲げた。手元のナイフを見つめて、「べつに」とぶっきらぼうに答える。
そうですか、とネメシスが鼻で笑った。
横でネメシスが炭の棒を手に取って、紙になにか書きつけはじめると、ヘイダルは磨いていたナイフをしまって、そちらの作業に目を移した。カリカリと炭が紙に引っかかる音がする。ネメシスの髪の毛がさらりと垂れてきて、それを荒っぽくかきあげて耳の後ろへ持っていく。
教わる機会はあったものの、すらすらとは読めない文字を、引っかかりながらも頭の中で追っていく。ヘイダルがすべてを読み終えるよりもずっと早く、ネメシスは作業を終えてぱらりと紙をめくった。
書類、おそらくは新兵の名簿のうちの、いくつかの名の前にネメシスが丸印をつけていく。
その淡々とした作業に、しだいにヘイダルは不安をかきたてられた。
「ネメシス」
思わず声をかける。ネメシスは顔を上げることなく、「なんですか」と返した。
詰まって次の言葉を出せずにいると、再び紙をめくったところで、ネメシスは上体を起こした。
「はい?」
短気な男は急かすように視線を送る。目が合うと、どうにも居た堪れない気持ちになり、ヘイダルは視線を泳がせた。
「いや、さっきから何やってんのかなって、気になって」
慌てて言うと、ネメシスはふう、と息を吐いて、紙の束を整えなおした。
「昼間の訓練で兵の様子を書き留めたものです。これをまとめて、班に呼び込む者を絞っていますが」
「そっか。様子はどんな感じなの?」
「悪くはないでしょうね。しっかり育てれば見込めるものは大きいと思います」
アルバ市の兵はよく動きますからねと、上機嫌にネメシスが言う。ヘイダルは下唇を噛んだ。
「あそこで最もうちに欲しかったのはリカオンという男だったんですが、死んだらしいですね。こちらへ着けられれば剣にも盾にも頼れる兵になったでしょうに、残念です」
言い終わるのと同時に、ヘイダルはナイフを放り出して、ネメシスの腰に抱き付いた。
驚いたネメシスがその肩を押し返そうと手を伸ばすも、ヘイダルが腕の力を強めて、それを拒む。
「よせ。何の真似だ」
低く言い放つと、ヘイダルは顔を上げないまま、もごもごと喋る。
「ネメシス。俺、嫌だ」
少年が声を震わせると、ネメシスはあきれ顔で短くため息をついた。
こいつも面倒なガキなのだと忘れていた。内心で舌を打った。
「何が嫌なんです」
「ここへ来てから全然昔と違う。ザラームのところにいたみんな、変わっちゃった」
「環境が変われば人も変わりますよ」
「ファドルは茶なんて淹れない」
少年はぶつりと、投げつけるように言った。
「ジャアファルだって、いつも余所者とつるんで、喧嘩とかして。昔はそんなじゃなかった」
苦しみまぎれの声を聞き、ネメシスはやや口角を上げた。
「リドもそうだ。俺の後ろで怯えてたくせに、自信ありげにしてて。あんなの違うよ」
「はは。妬いてるんですか?」
「妬いてるよ!」
突然顔を上げ、威勢よく吠えると、驚いてネメシスが押し黙る。
その隙をついて、ヘイダルが勢いよく絨毯の上へ、力任せにその男を押し倒した。
「ネメシスもさ!」
自暴自棄な様子で、ヘイダルはますます声を荒げた。
「前まで俺にずっと付きっきりだったくせに。なんで他の兵のことばっかりに構うんだよ!」
「はあ……」
「なんで俺がネメシスんとこの班員じゃないんだよ」
「ヘイダル」
「余所者が俺より立派に戦えるわけねえだろ」
少年は強引に、ネメシスの胸に額をうずめた。
「何ならあいつら全員の首を獲ってこようか。そしたら俺のことまた認めてくれるんだろ!」
ネメシスが、腰のナイフへ置いていた手を放して、勢いよくヘイダルの両肩を掴んで押し返す。
そのまま同時に上体を起こして、喚いてべそをかく少年の頬を、派手な音を立てて打つ。
パン、と乾いた音のあと、じわりと痛みが広がる頬へ、ぽろりと涙がこぼれる。
「なんで俺じゃないんだよぉ」
ぽつり。力ない声が床へ落ちた。
「俺ぁ嫌なんだよ。みんなが、離れていくみたいだ。みんな忘れていく、家族だったこと」
喉のつぶれたような声をひねりだして、ヘイダルが泣きじゃくる。
ネメシスはそれをじっと見守りながら、ただただ心が冷めていった。目の前の兵士がまだほんの少年であることも、本来ならば周囲に助けられ守られて当然の存在であることも、血縁を知らぬ孤児であることも、彼が己の腕だけを頼りに幼い命を投げ打って剣を取り戦ってきたことも、同時に思い出された。
だから何なのだと、ひどく棘のある呟きが、頭の中にぽつりと響く。
「ネメシス、他の奴のこと褒めないでよ。俺を捨ててどこかへ行ったりしないでよ」
立ち上がりかけたネメシスの、服の裾を掴んで、ヘイダルはぼたぼたと涙を落とした。
「もう俺の事どうでもいいのか。必要なくなったのか。俺、ネメシスが言うんなら何だってやるよ」
ぐずぐずと鼻を鳴らして、嘆願するように、少年は呟く。
ネメシスはしかし押し黙ったまま、少年の髪を掴んだその手に、より力を込めた。
「俺はネメシスが何者だっていいんだ」
哀れに泣きぬれた顔が、男の顔を覗き込む。
突然に感情をぶつけられたことを、心底面倒に思いながら、それでも浮かんだ言葉を呑みこんで、ネメシスは冷静になろうと努めた。まだ減らず口を叩くのなら一発殴ってやろうかと、握っていた拳を広げて、おもむろにその手でヘイダルの頭に触れた。
「今も昔も、お前が一番可愛いですよ」
ネメシスの手が、頭を撫でるようにかすかに滑る。
ヘイダルはぐらぐらと揺れる視界の中を確かめるように、彼の顔を見上げた。
男の目は、哀れむような笑うような、それとも蔑むような、判別しがたい複雑な表情を帯びていた。
うめくような声を漏らして、ふたたびその腰へしがみつくように腕を回すと、ネメシスは今度はそれを素直に受け入れて、少年の頭をぽんぽんと撫でた。
望み通りに飼い慣らしておけばいい。今はまだ。ここで揉めたほうが後々面倒だ。
こいつも、求めた以上に育ってくれたものだ。
思案する男の目はしかし、件の名簿に並んだ丸印を、ぼんやりと捉えていた。