お父さんとお話しようか
なにも、不幸にしたくて招き入れたわけではなかったのに。
テイアは角部屋の入り口に手をかけた。
キイ、と小さく軋んで開いた戸の隙間から室内を見やる。こちらに背を向け、外を眺める少女の姿があった。ベッドの上に膝立ちしたままで、窓を覗こうと伸ばされたらしい背中は、どこか寂しげに映る。
小さく息を吐いてから、テイアは部屋に足を踏み入れる。古びた床が、僅かに反って音を立てた。
それでも、不貞腐れたその少女は振り向かず、相変わらず出窓に顔を突っ込んでいた。
「ナージャ」
テイアが声をかける。
ナージャは窓から首を引いて、ゆっくりと振り返った。
「またお友達と喧嘩したのか?」
テイアが尋ねた。
娘は口元を歪ませてから首を大きく横に振り、向き直ってどっかりとベッドに腰を下ろした。
「友達じゃないもん」
不服げなナージャが刺々しい声をあげる。
「そうか。でも喧嘩はしたんだろ?」
「…………」
ぷいと顔を逸らし、ナージャが黙り込んだ。
テイアはやれやれ、と溜め息を吐いては、すっかりご機嫌を損ねた娘のそばに腰掛ける。
「あのなあナージャ、俺は喧嘩をするなとは言わない。腹が立てば好きなだけ言い返してやれば良いぞ。でも相手に怪我させても許されるのは、自分が怪我を負わされた時だけだ」
「ケガなんてさせてないもん!」
ナージャは突然に顔を上げ、大声を出した。
テイアは目を丸くしてその顔を見てから、眉尻を下げて苦笑いする。
「そうだな、怪我はしてないかもしれない。だけど、いくら友達じゃなくっても、いくら腹が立っても、さすがに人を肥溜めに落としちゃいけないな。ナージャだって同じ事されたら嫌だろ?」
「そのくらい腹が立ったんだもん。それに、肥溜めを狙ったわけじゃない!」
テイアの言葉に、ナージャはぷっくりと頬を膨らませた。
「突き飛ばした先がたまたま肥料屋さんだったの、きっと天罰だもん。いい気味!」
「ナージャ!」
テイアが一喝すると、ナージャは驚いて口をつぐみ、その顔を見上げた。
いつもの笑みが消えた厳しい瞳に、真っ直ぐに見つめられ、少女はうな垂れる。
テイアは暫く黙っていたが、やがて表情を緩め、ナージャの脇に手を伸ばした。
父の優しい腕は、彼女を膝上に抱き寄せる。大きな掌が、少女の髪を優しく撫ぜた。ナージャはその目に溜まった涙を見られまいと、深く深く俯いて、テイアの胸に顔を埋めた。
「お前が理由も無く人に手出しをする子じゃない事は知ってるよ。少し話を聞いても良いか?」
テイアが優しい声色で話しかける。
ナージャは父の服をしっかと掴んだまま、依然として押し黙っていた。
「今日は何を言われたんだ?」
「…………」
「教えるのもつらいか?」
「……親無し子……」
「うん?」
ナージャがぽつりと小さく呟くと、テイアは彼女の顔のほうに耳を近付けた。
「親のいない捨て子とは遊ばないって言われた。汚い所から来たの、知ってるぞって」
意外にもしっかりとした声で、ナージャは説明した。
彼女の話を聞くテイアの眉間に、深くしわが刻まれていく。
「言い返そうと思ったけど、何も浮かばなくって、悔しいから、突き飛ばしたの!」
投げつけるような大声で、ナージャは言葉を吐いた。
テイアはしばらく難しい顔をして押し黙り、床の一点を凝視していた。
が、やがて娘の小さな肩に視線を落とすと、力強く抱き締めた。
「そうか、そうか。悔しかったな。でも気にするんじゃない、お前には父さんが居るんだ」
テイアが言うと、ナージャはその腕の中で大きく頷いた。
明るい翡翠の髪が、くしゃくしゃと服に擦れる。
「そういうのは、周りの大人が勝手に噂するんだよ。ごめんな。きっとあの子もそれを聞いて、ちょっと言ってみただけだ。本心じゃない。きっと意味も分かってない。腹は立つだろうけど、許してやってくれ」
ナージャはまた、何度も大きく頷いた。
テイアは固く締めつけていた腕をほどく。
少女の両肩に手を乗せ、赤い目元を気にかけながらも、じっと彼女と視線を合わせた。
「仕返しは自由だと言ったが、それでもなるべく喧嘩はよしてくれよ。俺はナージャが誰かに傷付けられたら悲しい。同じように、他の子の親だって、自分の子が傷付いたら悲しいに決まってるからな」
「うん……」
ナージャは短く答えて、滲み出る涙が頬へ溢れてしまわないよう、ぐっと堪えた。
それでもぽろりと流れた大粒の玉を、ごしごしと手で拭ってから、今一度テイアの顔を覗き込む。
「でもね、父さん」
「何だ?」
「どうしてウチにはお母さんが居ないの?」
テイアは一度、固く口を結んだ。
ナージャがそれをじっと見つめ、二人の間にしばしの沈黙が流れる。
「……俺は嫁をもらう暇が無かったからなあ」
躊躇いとも、罪悪感とも取れない複雑な思いで、テイアがゆっくりと口を開く。
「結果としては、今はお前らが居るから寂しくもないし。特に結婚したいとは思わないんだよ。ナージャやハルの世話はシャラが手伝ってくれるし……っと、」
テイアは言葉を切ってから、はははと声をあげて笑った。
「そんな話をしても仕方がないな。ナージャ、逆に聞かせてもらうが、お前はお母さんが欲しいか?」
心外な問いを投げかけられて、ナージャは「えっ」とたじろぐ。
それから一度視線を落としてテイアの腹のあたりをぼんやりと見つめ、また顔をあげてから小さく首を傾げた。
「わかんない。でもそんなつもりで言ったんじゃないよ」
その子が、懸命に考えながら言葉を紡いでいるのが、テイアにはひしひしと感じられた。
「わたしも、お母さんがいなくても、みんながいるからちっとも寂しくない」
言い終えたナージャが、照れたように笑うと、テイアは堪らず、再び彼女を力一杯抱き締めた。
「そうだよな。人にとやかく言われる筋合いなんてないんだ。俺たちは家族なんだ」
自らに言い聞かせるように、小さな声で、ぼそぼそとテイアが呟いた。
――肥料置き場の周りに頑丈な柵が設けられたのは、それから2日後の事であった。