先日、学校を卒業した。

 アッズィムの大きな神殿の付属の学び舎で、ご高名な先生に農学と経営を学んだ。
 そこで身に着けた知識が役に立つかどうかなど、まだ分かったものではない。将来への不安要素は足元にごろごろと、蹴って散らすほどある。それでも、後先の事を踏まえないで考えれば、僕にとって学ぶことはとても楽しかった。およそ、人間の生きる糧となるのは飽くなき知的好奇心なのだろうと、本気で思った。
 まだあの小さな寮の部屋に閉じこもって、本に齧りついていたいという気持ちは勿論あったが、実家に帰るべき時機はとうに訪れている。そもそも、僕が学問を修めたのは家庭のためだったから、ここに留まって駄々をこねるのは論外だ。外の世界に何を見出したところで、帰るべき家が決まっている以上、この身に自由は訪れない。

 豊かに髭を蓄えた恩師に頭を下げ、ひどくさっぱりとした別れの挨拶を済ませる。
 門の外では仰々しい馬車が僕を待っていた。作り笑いを浮かべる御者に腕を引かれ、車に乗り込む。

 3年前に見た景色に、よく似ている。
 僕はあの時も、こんな風にして馬の歩みに揺られながら、生まれ育った街を初めて発った。
 手を振りながら遠ざかり、やがて見えなくなった級友から目を離す。名残惜しい気持ちをごまかそうと、 天を仰いだ。ここでは雲が見える。今や見慣れたこの空も、きっとすぐに思い出せなくなってしまうんだろう。

 季節はもうすぐ秋になる。
 僕はこれから、牢獄のような豪邸で、一生涯を終えることになる。




「奇妙ですよね。ディルムトの人間がアッズィムへ行って、しかもアシャの神殿に入るなんて」
「…………」

 僕のお喋りに付き合うつもりのないらしい衣装係は、無言で手を動かした。
 襟を閉めようと伸びてきた指に、慌てて顎をもち上げる。人に服を着せてもらうのは、きっと赤ん坊のころ以来だ。着せ替えられることに不慣れな僕は、しばしば冷たい視線を受けた。
 僕は着替えさせられる側だから、まだ仕事前の準備段階だけど、着替えさせる側の衣装係にとっては今はまさに仕事中だ。この他人めいた視線はきっと、仕事の邪魔をするなという、僕への叱咤なのだろう。

「ジャン、用意は出来ましたか」
 不意に名を呼ばれて振り返ると、部屋の入り口にパンさんが立っていた。

「ハーシム様がお待ちかねですよ」
 パンさんが優しい声で呼びかける。パンさんは小柄な初老の使用人で、ハーシム家に仕えている。
 ハーシム家というのは、僕の生家が代々お仕えしてきている、ディルムト市の名家だ。

 パンさんは昔、先代の当主に拾われた身で、ハーシム家とも僕の家柄とも血縁は持たないらしい。
 それでも僕の見る限りでは、彼は血筋などは関係なしに、周囲の誰もに好かれている。

「すみません。もう出ます」
 僕が返事をするのとほとんど同時に、素早く手を動かしていた衣装係が立ち上がり、無言で僕に頭を下げた。いやに改まった雰囲気のお着替えは、これで終了ということらしい。
 アッズィムの神殿で着ていたお下がりの古い服から、質素ながらも品のある給仕服に着替えると、僕も身が引き締まるように感じた。大きな姿鏡から目を離してパンさんの隣へ駆け寄ると、パンさんは満足そうに頷いて、ゆっくりと歩き始めた。僕はその斜め後ろについて歩く。

「ジャン、先ほどの話ですが」
 パンさんが話題を持ちかける。
「どの話ですか?」
 僕がすぐに聞き返すと、パンさんはちらりと僕の顔を横目に見てから、また前方に視線を戻した。

「衣装係に言っていたことです。アッズィムでどんな勉強をしていたのか、詳しくは知りませんが、とにかくディルムトに帰ってきたからには、他所の神様の名前を口にしてはいけません。ここはそういう所です」
 パンさんは話を長引かせようとしているのか、初めよりもさらに歩みを遅くしながら喋った。

「はい、解っています」
 僕は呟くように応え、パンさんの言葉に頭をがつんと殴られたような思いで俯く。

 そう、ディルムトというのはそういう街だ。
 ここで信じるものは、ディルムトの守り神である、女神イナンナのみ。
 "彼女"はこの宇宙に存在する唯一の神様とされているから、ディルムト市民にとって、たとえばアシャムスのようなその他の神様は、そもそも存在しないものとして扱われる。いわゆる、邪道の異教だ。
 留学の出発前に、あちらの宗教と接触してはならないと、大人にしつこく釘を刺された。

 パンさんはこの話題について、それ以上は何も言わなかった。
 僕もとくに言及するつもりにはなれず、黙ってパンさんの足元を眺めて歩いた。

 僕の考える限り、ディルムトという街は、ひどく狭く、惨めな世界だ。


 しばらくパンさんの後について、炎天下の街を歩く。
 目的地であるハーシム邸と僕の家とは隣り合わせなのだけれど、後者の敷地の広さのせいもあり、玄関どうしは離れている。やっと見慣れた扉に辿り着くと、門番が仰々しく入り口の扉を開いた。
 ひどく綺麗に磨かれた床や壁には、女神イナンナを象ったモチーフが踊る。
 エントランスを抜けた先の階段の前で、パンさんが足を止めて振り返った。

「ハーシム様のお部屋へは、君がひとりで行きなさい」
 パンさんが言う。分かりました、と返し、大きく息を吸った。
 ハーシム様というのは、ハーシム家の現当主のこと。ディルムト市では、当主のみが代表して家の名前を名乗るしきたりがある。今のハーシム様も幼い頃は自分の名前で呼ばれていたのだろうけど、先代の当主は若くして亡くなったらしく、僕はハーシム様の個人名を知らない。

 既に歩き慣れた絨毯の上を足早に通り過ぎ、大きな扉の前に立った。
 ここがハーシム様が待っている応接間だ。僕はもう一度深呼吸して、金の取手を握った。

「失礼します」
 努めて大きな声でそう言ってから、扉を開く。
 外の光を取り込まない応接間。空間のあちこちに沢山の灯りが点され、壁に備え付けられた装飾品や絨毯、その上に並んだ家具が、柔らかな橙に照らされていた。誰が見ても羨むような豪邸である。
 僕の真正面、上座にはハーシム様が座っている。ハーシム様は僕の顔を見るなり、微笑みもせず、無言でただ頷いた。ハーシム様の両脇には大ぶりのソファがそれぞれ並んでおり、僕の向かって右に奥様、向かって左に、小さな女の子が座っていた。
 少女は僕をまじまじと眺めたあと、落ち着かない様子で視線を遊ばせた。

「座りなさい」
 ハーシム様が低い声で言い、向かいのソファを手で示した。
 僕は早口にお礼を言ってから、ぎこちない動作で椅子に腰掛けた。

 背筋を伸ばして向かい合うと、自分がひどく小さな生き物になったように感じた。
「よく来た、カッシーニ」ハーシム様が口を開く。
「特別な挨拶や説明は必要ないだろう、お前は昔からうちに通ってくれた。娘のことを覚えているか?」

 言いながら、ハーシム様は少女に目を向けた。
 それに合わせて僕が視線を送ると、少女は恥じらった様子で俯いた。

「サファ、挨拶をしなさい」
 ハーシム様が声をかける。
 少女が顔をあげて、頬を紅く染めながら僕の顔を見つめた。

「はい。あの、サフィーアです。よろしくお願いします」
 サフィーア様は小さな声で喋った。

「サフィーア様、宜しくお願いします。今日からこちらにお仕えいたします、カッシーニと申します」
 僕は声色が堅くならないようにと気を張りながら、サフィーア様に語りかけた。
 ハーシム様が軽く頷き、僕のほうを見る。
「アッズィムから無事に帰って来て、私達も安心した。娘をよろしく頼む」
 僕にそう告げると、ハーシム様は、目元にくしゃりと皺を寄せて笑ってみせた。
 お前がカッシーニを名乗るのは初めて聞く。と、ぎこちない表情の中に、気遣いを感じる。

 ハーシム様の不器用そうな笑顔を見ながら、僕も「はい」と笑い返した。