頭上の壁から鈍い振動が伝わってきて、目を覚ました。

 部屋は真っ暗で、窓の外にも光は見受けられない。まだ夜明けにも程遠いようだった。
 ぼんやりとする思考を払おうと頭を振ってから、じっと耳を澄ます。ドンドンと壁を叩くにぶい音と一緒に、しきりに自分の名を呼ぶ声が、微かに聞こえた。


 絨毯に足を滑らせたが、靴の感触には行き当たらない。
 仕方なく裸足で立ち上がり、暗闇の客室の中を曖昧な記憶を頼りに歩き、壁伝いにドアまで行き着いた。
 冷たい金属製のノブをひねって部屋を出るも、廊下の灯りもやはり全て消えている。また致し方なく、壁伝いに少しずつ歩いて、隣の部屋のドアまでやって来る。

 3回ノック。返事の代わりに、遠くに自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
 今度は強くノックしてから、廊下に響かない範囲で可能な限り大きな声で、同僚に呼びかける。

「リド? いいか?」

 すぐにパタパタと足音が聞こえて、一度ドスンと鈍い音がした。
 ガチャンと鍵が開き、内開きの戸が勢いよく開く。闇に慣れた目に、ぼんやりと白い輪郭が写った。
「どうしてすぐに来てくれなかったのヘイダル!」
「しっ、声が大きいぞ。深夜なんだから。とりあえず中に入ろう」
 足を踏み出すと、リドが俺の腕をひしと掴んだ。
 できるだけ音を出さないよう努めて、ゆっくりとドアを閉める。リドにまとわりつかれて、この上ない歩きづらさを感じつつ、相方を引きずるようにして、とりあえずベッドまで来た。

 ベッドのふちに腰掛け、右腕にしがみついた同僚を引き剥がす。
 隣へ座らせると、リドはすすり泣きながら、小さな声でぼそぼそと訴える。

「僕ずっと呼んでたのに……すぐに来てくれなかった」
「ああ、ごめんな。寝てたんだよ。壁を叩く音で目が覚めた。それで、何かあったか?」
 早口になりながら説明して、頭を撫でてやると、リドは寝間着の袖でごしごしと目元を拭った。

「怖い夢を見たんだ」
「夢?」
 リドがこくりと頷く。

 なんだ、夢か。内心で安堵のため息を吐く。
「どんな夢だった?」
 一瞬体を強張らせたリドが、深く首を垂れた。
 その肩にぽんと手を乗せると、震える声が返ってくる。

「ハウディ様が」
「……が?」
「帰って来なくて。やっと見つけても、動かなくて。呼んでも返事を、してくれなくて、」
 ぐすりと洟をすすって、リドは無言になった。
 ああ、成る程と思った。納得はしながらも、何と声をかければいいか分からない。
 俺もぼんやり俯いて、友人の背中を撫でながら、主人のことを思い出した。

 自分たちの知らないどこかで戦っているハウディ様が、もしこのまま死んでしまったら。
 それとも、俺たちがもしもこのまま捨てられて、二度と側に置いてもらえなかったとしたら。

 そういうもやもやは俺も感じていたし、他の兵士たちもそうだろう。
 俺やリドワーンだけでなく、この義勇軍に参加した兵は大抵、"ここ以外に行き場が無い"人間の集まりだ。皆、切り捨てられる事を恐れている。今回の作戦は、事情があっての少数精鋭編成だと聞いた。が、そういう言い回しで俺達が体よく厄介払いされたのではないと、証拠づけるものは何も無いんだ。
 ――正直、南方からの兵が加わり、多勢を抱えた今になっても、なお必要とされる自信は無い。

 リドが体をこちらへ向ける。
 雲が晴れたのか窓から月明かりが差し込んで来て、はっきりと見てとれた瞳と視線がぶつかった。
 いっぱいに溜まった涙が、月光の中できらきら揺らめく。

「ヘイダル」
 震える唇のすぐ側をうっすらと涙が伝った。

「どうしよう、ハウディ様が本当に帰って来なかったら。あのままあそこで、」
 喉が詰まったように声がだんだんと掻き消え、リドはぽろぽろと涙を零して俯いてから、黙って俺の胸に顔をうずめた。鳩尾にじわりと温もりを感じながら、俺はその背中に手を回し、片方の手でリドの頭を撫でる。
「もし帰って来ないなら、俺たちが迎えに行けばいいよ」
 リドはおとなしく縮こまって、僅かに震えていた。

「ハウディ様が嫌がったって、引きずってでも連れて帰るぞ、俺は」
 腕の中で、リドが小さく頷いた。
 俺はふうと息を吐いて、リドの頭をまたぽんぽんと撫でた。

 その背を暫く撫でていると、しだいにリドの呼吸が落ち着き、やがて無言が続いた。
 まさか、と思って声をかける。
「……おいリド、寝たか?」
「起きてる」
 予想に反して、間髪入れずに返事がきた。
 俺は苦笑いしてから、リドの肩に手をやり、ぐいと押し戻してからリドと顔を合わせる。

「もう落ち着いたな。じゃ、俺は部屋に帰るから……って、え」
 いきなり押し返されて、抵抗もできず後ろに倒れる。
 頭を打つのではと咄嗟に縮めた首は、計算されたようにすっぽりと、柔らかい枕に受け止められた。
 馬乗りになったリドが両手で俺の頬を挟み、ぐいぐいと圧迫する。

「なんで帰るの! 僕がこんなに怖い思いをしたのに!」
「いや、夢だろ夢。声でっか」
「そもそも、昨日寝る前に僕、ヘイダルと同じ部屋がいいって言ったのに!」
「だってお前、めちゃくちゃ寝相悪いもん」
「結局、怖い夢見て助けを呼んでも、すぐに来てくれないし!」
「ちょ……やめ、やめろ」

 手首を掴んで頬から引き剥がすと、リドは「もう!」と怒った。
 光の加減が合わなくて見えないが、きっといつも通り、愉快な表情を浮かべているんだろう。

「いや、だからごめんって。どうして欲しいんだよ?」
 俺が訊くと、リドは一転して押し黙った。
 それから無言のまますっぽりとわきに潜り込んできて、俺が声をかける前に小声で言う。

「おやすみ」
「おいちょっと待て。つまり一緒に寝てほしいんだな?」
「おやすみ」
 繰り返すと、同僚はもぞもぞと動いて、頭の上まで布団をかぶった。
 呆気にとられた後、くっくっと笑いながら、その布団をちょっと自分のほうに引っ張る。

「お前さ……王が居ないとほんと赤ん坊みたいになるよな」
 返事の代わりに、脇腹に拳が入った。勢いがないので全く痛くない。
 俺は体をリドの方へ向けて、さらに畳み掛ける。

「な、さっきドア開く前、一回こけただろ。ドスンって音聞こえたぞ、ドスンって」
「……うるさいな……」
 不機嫌な声で呟きながら、リドが寝返って背を向ける。
 俺がひとしきり笑ってから一息つくとと、リドももう何も言わなかった。
 窓から月の光が、ちらちら照ったり翳ったりした。

 明日。明日になれば、また王から何か知らせが届くはずだ。
 明日来ないなら、その次。少なくとも近いうちに。

 考えているとじわじわと眠気がやって来た。やがて瞼が落ちるのを、俺は素直に受け入れた。