「本当に行ってしまうんですね」

 月明かりにぼんやりと照らされた背中に声をかける。
「……本当に、とは何だ?」
 すっかり身支度を整えた彼が振り返ると、ビャクダンがふわりと香った。
 嗅ぎなれた匂い。私のよく知る、"彼"の匂いだ。普段なら心安らぐその香りさえも、今日ばかりは私の胸を締め付ける。いつもと別段変わらない友人の顔を眺めながら、脳裏には暗い感情が渦巻いた。

「いえ、何と言うか、」
 彼の顔を見るのが嫌で、私は視線を落とした。

「貴方とはずっと一緒にいられるような気がしていたのです」
 落ち着け、と自分自身に言い聞かせ、平静を装う。我ながら、妙な言い訳をしたものだ。
 彼は一歩近付いてきて、私の顔を覗き込んだ。
 段違いの視線に、相変わらず小さいなあ、などと考えて笑ってしまう。

「何を笑っている」
 彼がぶっきらぼうに言う。
 何でもありません、と小さく返すと、彼は視線を逸らしてあさってのほうを見た。
「まあ私も、こんなに早くここを発つことになるとは思わなかった」
 彼が少し身体をねじる。薄い靴底が砂を撫ぜ、ジャリ、と音がした。

 立ち話をする時、胸の前で両腕を組むのは、これまでにもよく見かけた彼の癖だ。
 そう、よく知っている。彼のことは何でも。誰よりも一番に。

「お前には世話になった」
 じっと黙り込んだあと、彼は視線をこちらへ映した。
「離れるのは寂しくもある。が、これが天命だ。私にはやらねばならない事がある」
 まばたきに合わせて、彼の睫毛が月光をはじく。

「私を連れて行ってはくれないのですか」
 握り拳に力を入れ、声を絞り出す。声の震えは誤魔化しようがなかった。
 暫しの沈黙。耐えかねて彼の顔を見ると、彼はいつもの無表情でじっと私を見ていた。

 感情の読めない目元。
 大きな瞳も、長い睫毛も、西方の人形のそれのような、作り物のように見えた。

「約束をしただろう」
 彼が言う。私は俯いてから、小さく頷く。
「私が帰ってきた時、お前が居なくては困る」
「私は、貴方がここに居てくれないと困ります」
「さて、どうだろうな」
 顔を上げる。彼は足元をぼんやりと見ていた。
 返す言葉が見つからず、私もまた視線を落とした。生ぬるい風が吹いている。

 再び訪れた沈黙の後、彼が口を開いた。

「私はこれが自分の為すべき事だと確信している。しかし、これが成功する保証はどこにもない。志半ばで天に憎まれ命を落とすかもしれない。遠い異国の地で、いつかこの首を風に曝すかもしれない」
 非常に淡々と、彼は喋った。
 一息おいて、私の顔を真っ直ぐに捉えた瞳が、月明かりに潤む。

「私は、お前に罪を着せることはできない」

 その、射抜くような視線。全て見抜かれているのだ、恐らくは。
 唾を飲み込んで俯く。喉が詰まるような思いで、私はただ、はい、と返した。
 彼はすぐ目の前まで歩み寄って来てから、私の左肩にぽんと手を置く。

「保証など無くとも、私は必ず帰ってくる。それまでにその泣き虫を治しておけよ、テイア」
 彼は目を細めて微笑んでみせ、くるりと身を翻して歩き出した。
 今の笑みは、どういう意味のある笑みなのだろうか。

「絶対に、絶対に帰ってください」
 絞り出すように声をかける。
 伝えたい事は沢山あったはずなのに、言葉にできたのはその一言きり。
「……待ってるからな。帰ってこいよ、ハウディ」
 彼は振り向かないままで、片手をひらりと振って応えた。

 私はじっとその背を眺めたが、やがてそれも、夜の闇に溶けて見えなくなった。


 街路にはにわかに一陣の風が吹き、砂埃を舞い上がらせる。
 何を思うでもなく、ただ立ち尽くす私の足下を、生ぬるいそれが名残惜しそうに掠めていった。